この動画は、物理学者サビーネ・ホッセンフェルダーが自身の著書『実存物理学』について語りながら、自由意志の不存在、意識の本質、超決定論と量子力学における測定独立性の仮定、そして汎心論への批判など、物理学と哲学の境界領域で議論される根本的な問題について解説している。特に、ベルの定理における「自由意志の仮定」が実際には哲学的な自由意志とは異なる概念であることや、物理学者が哲学的議論に不用意に踏み込む際の問題点について詳しく論じている。

自由意志と実存的危機への警告
あんたの本『実存物理学』は精神的健康への警告から始まってるけど、なんでそんなもん入れたんや?
それはな、私が自由意志の不存在について書いたり話したりしたことに対して、めちゃくちゃたくさんのメール貰ったからなんよ。私は自由意志なんて存在せえへんと思ってるんやけど、そのことで一部の人らが対処するのに苦労してるってことが分かったんや。
そんで彼らは私に「自由意志がないんやったら人生の意味って何なん?」って聞いてくるんやけど、私にはええ答えがないんよ。やから最初にこういう警告を出しとこうと思ったんや。個人的にも、学生の頃に物理学勉強してた時はめちゃくちゃ困った覚えがあるしな。「ああ、これで全部の仕組みが分かったわ、根本的にはみんな原子でできててこんなことしてるんや」って分かった時に、自由意志の入る余地はどこにあるんやろうって思ったんよ。これについてはもっと詳しく話せるけど、私自身も理解して納得するまでにはかなり時間かかったから、みんなにも何に向き合うことになるのか知っておいてほしかったんや。
たしかに物理学者や哲学者が「自由意志なんて存在せえへん」とか「倫理なんてない」とか「神についてはどうや」みたいなクレイジーなアイデア出してくる時に、「ほな、その情報を踏まえて我々は何をしたらええんや?」って聞かれることがよくあるな。でも「そんなもん知らんがな、私はただ問題を診断したり、真実やと思うことを伝えてるだけやで。どう対処するかはあんたが考えることや」って感じやけどな。
でもあんたが物理学者として触れてる分野、自由意志とか意識とか、時々神についても話してるやん。そういうコメントの中の絶望感って分かる?「実存的危機に陥ってる」って言われた時に、「それは気の毒やけど、私には関係ないわ」って言うのか、それとも自分も通った道やから何とか対処できたってことなんか?
ああ、私も通った道やし、何とか対処できたんよ。そういうコメントを無視するなんて絶対せえへん。人のことが心配やから助けようと思うんや。私は何とか折り合いつけることができたから、それを人に伝えようとしてるんやけど、実際に効果があるのかどうかは分からへんのよな。やからこそ心配になるんや。
なんで人らが困るのかは理解できるで。「何の目的があるんや?何をしたらええんや?人生で何をしたらええんや?なんで何かをする必要があるんや?」って感じでな。私はこういうことについて話すには少し向いてない人間やと思うんやけど、でも話さんわけにはいかんのよ。
物理学と哲学の境界領域
主要な分野って何や?さっき自由意志について触れたけど、自由意志を信じひんことが実存的危機を引き起こすってのは理解できるやろうけど、「今日のアレックスのゲストは物理学者やと思ってたのに」って驚く人もおるかもしれんな。
なのに最初から実存的問題について話してるやん。これって普通は哲学の領域やのにな。物理学者が書いたり触れたりする他の分野で、そんなメールを送ってくる人がおるような分野って何や?
一つのかなり明白な質問というか話題は、物理学者が好んで話す宇宙の始まりとか、すべての起源についてやな。一般的に「神の居場所はどこにあるんや?自然の根本を超えた何かはあるんか?」みたいな質問や。
それから、ここ2年でAIがあらゆるところにあるようになって、もっと広く議論されるようになったのが、意識について何か特別なもんがあるんかってことや。まあ、人らがそう表現してるだけで、本当に言いたいのは「俺らについて何か特別なもんがあるんか?」ってことやと思うけどな。
一部の人にとっては、これがめちゃくちゃ重要なことらしくて、俺らには機械では作れない何か違うもんがあるって思ってるんや。でも私は基本的にはそんなもんないと思ってる。俺らはみんなある意味で機械やねん、ただ違う材料でできてるだけで、コンピューターが意識を持てない理由なんてないと思うで。
物理学にもこのことについて言うべきことがあると思うんや。根本的には俺らはみんな原子でできてるからな。
意識と複雑性の関係
あんたの本には「俺らはただの原子の塊なんか?」みたいなタイトルの章があって、人間とか知覚を持つ心を特別にするもんが何かあるんかってアイデアについて論じてるな。たしかに「俺」がおって、目の前にこのマイクがあるわけや。いつも例に出すんやけどな。
サイズとか形とか色の違いはあるけど、マイクには「マイクであることがどんな感じか」ってのがないのに対して、「俺であることがどんな感じか」ってのがあるみたいに思えるんよ。これは内的な一人称の視点とか感情とか、目を閉じてマイクにはない想像をできるってことと関係がありそうやねん。
哲学者とこのことについて何度も話したことがあるんや。この意識ってやつはどこから来るんかってな。でも物理学者の視点から見ると、原子がぶつかり合ってるだけの話やとしたら、原子を正しい順序で組み合わせたら岩とかマイクとか水ができるのは理解できるけど、正しい順序で組み合わせたら一人称の意識的体験とか想像上の岩とか想像上の数字とかあらゆるもんができるってのが、一部の人には全く理解できないみたいやねん。
まあ、本のドイツ語タイトルは「mehr als atome」、つまり「原子以上のもの」なんよ。要するに、俺らは原子以上の存在やってことや。作られてる材料だけの問題やなくて、それらがどう結びついてるか、何ができるかが問題なんや。あんたが今言った通りやで。
人間の脳はあんたのマイクよりもっとできることがあるんや。ただもっと複雑なだけやねん。そんで問題は、これが唯一の違いなんかってことや。人間の脳はただ接続がもっとたくさんあって、もっとたくさんのことが起こってて、哲学者が言うような創発的特徴がマイクよりもっとたくさんあるだけなんかってことや。私は答えは「そうや」やと思う。それだけやねん。
現時点では人間の脳は俺らが思いつく他のどんなもんよりもずっと複雑やけど、このままじゃないかもしれんけどな。
関連する議論として本で取り上げてるのは、実際にこの原子が必要なんか、それとも他の何かから意識を作ることができるんかってことや。この特定の生物学的基質とでも言うべきもんが本当に必要なんか?それが何か本質的なもんなんか?物理学が教えてくれるのは、答えはノーやってことや。
ある規模を超えると、つまりめちゃくちゃ短い距離では、実際に起こってることの正確な詳細は、脳内で情報がどう送られるかには実際には関係ないってことが分かってるからな。物事がどう結びついてるかと関係があるんや。
そやから他のシステム、シリコンでも今使ってる他の何かでも、これを再現できない理由はないと思うんや。いつもグラフェンの話を聞くけど、現実になることはないみたいやけどな。他のシステムでも絶対にできると思うで。それが実際にまだできてるってわけやないけどな。
思考実験と置き換え可能性
たしかにな。多くの人にとって、いつかその過程がどう機能するかを解明するって確信があるんやと思う。でも原子を同じように組み合わせることができると仮定して、脳内のすべてのニューロンをトランジスタか何かで置き換える思考実験があるやん。
もしニューロン一個だけをトランジスタかシリコンの何かで置き換えたら、違いに気づくか?答えはノーやと思う。すべてが同じように機能して、脳も同じように動くはずや。それを何度も繰り返したとして、どの時点で意識がオフになるんや?ならへんような気がするやろ?
一方で、私はいつも人に視覚的な質問をするんやけど、多くの人は頭の中で物事を視覚化できへん人らもおるんよ。あんたもそういう人の一人かどうか知らんけど、目を閉じて赤い色を想像できるかってことや。
できへん人もおるし、できる人もおるけど、少なくとも頭の中で三角形を想像することはできるやろ?三角形には三つの辺があって、それについて真実なこともあれば偽のこともある。
今私が頭の中で思い浮かべてるこの三角形が、脳内の何かの原子構造と同じもんやって考え方についてはどう思う?二元論者は違うって考えるやろうな。その三角形は心の中に存在してるんや。空間的広がりがあって三つの辺があるからな。でも脳の中の原子にはそんな性質はない。この議論についてどう思う?この三角形って何や?どこに存在してるんや?どう存在してるんや?
原子構造とは呼ばんな。脳内で何かの材料を組み立ててるみたいに聞こえるからな。でも脳内の回路で何かが起こってるってのが私の考えや。
実際にはこのことについて推測する必要もないと思うで。今は人らが脳実験をやってて、私の専門分野やないけど、基本的に人が考えてる画像を読み取ることができるようになってるからな。今の時点ではそんなに優秀やないけど、いつかはできるようになるやろ。
ちょっと番組を中断するけど、まずニュースを信用してる?私は信用してない。それには報道に必然的に染み込むバイアスが大きく関係してるんや。メディアバイアスを完全になくすことはできへんけど、ニュース消費者として、異なる情報源が同じ話をどう報道してるかを客観的に比較する方法があったらええと思わへん?
それがまさに今日のスポンサーのGround Newsができることなんや。Ground Newsは何千もの地方や国際ニュース媒体を一か所に集約して、政治的スペクトラム全体の報道を比較できるようにしてくれるんや。ground.news/alexoで試してみてくれ。
カナダとヨーロッパの宇宙機関が政治的・経済的不安の中で関係を再確認したってニュースを見てみ。これは聞いててええニュースやけど、Ground Newsで見ると、この話を報道してる情報源のうち92%が左寄りで、右寄りは皆無やってことが分かるんや。つまり右寄りのニュースしか読まへん人は、この話を完全に見逃してる可能性があるってことや。
Ground Newsには専用のブラインドスポットタブまであって、普段読んでるニュースに基づいて見逃すであろう話を特別に探してくれるんや。素晴らしいツールやから、ground.news/alexoで試してみるか、画面に表示されてるQRコードをスキャンしてくれ。私のリンクを使えば無制限アクセスのVantageプランが40%オフになる。それでは番組に戻ろか。
クオリアと科学の関係
そうやな。脳構造を見ることで、彼らが頭の中で何を思い浮かべてるかが分かるようになるってことやな。少なくともその二つの間に密接な関係があることは示してるわな。
でも私がいつも引っかかるのは、体験に関連する精神活動と体験そのものの間の境界線の謎なんや。哲学では、精神活動とは別の体験そのものを表す言葉があるんや。クオリアって呼ぶんやけどな。
あんたは最近、科学がクオリアについて何か言えることがあるかもしれんって動画を出したな。科学哲学の分野では、意識について科学と哲学の境界線があるとよく思われてるんや。科学は脳を扱い、哲学はクオリアを扱うってな。でも科学とクオリアの関係について、最近動画を作る必要があると思わせるほど興味深いことって何やったんや?
もっと一般的なことを言わせてもらうと、私はこの科学ニュースをやってるんや。他の人がやったことを報告してるから、私がこの研究をしたとかそういうわけやない。
動画で扱ったのは、神経生物学とか神経何とかで働いてる人らが、クオリアを測定したみたいな論文を書く傾向があるってことや。まるでそれが実在するもんみたいにな。
動画で扱ったのは基本的にこの傾向についてやった。クオリアが哲学の側から科学の側に移ってきて、少なくともクオリアと呼んでるもんを測定しに行くって傾向やな。もちろんこれがクオリアやないって言う哲学者もおるやろうけど。
もし測定不可能なもんとして定義するんやったら、そんなもんについて話す必要はないやろ?定義によってそうなってるんやから。それは定義上、非科学的なもんになるからな。
でもクオリアが想定してた精神、つまり主観的体験について話してるんやったら、測定できると思うで。脳回路で起こってることやからな。もちろん、他の誰かがまったく同じことを体験できるってわけやないで。他の誰かが他の人と同じことを体験できる唯一の方法は、実際にその人になることやから、そんなのは意味ないしな。
定義の問題と科学の範囲
今言った用語の定義について興味深いな。科学者がクオリアの研究を始めてるけど、哲学者はそれを見て「測定してるってことは、それはクオリアやないやろ。クオリアは測定できないもんやから」って言うんや。
頭の中で赤さとか三角形とかを考える時、科学的方法ではアクセスできない個人的体験の何かがあるって哲学者の批判は理解できる?科学ではアクセスできないもんをクオリアと呼ぶのが適切やと思うか、それとも科学ができることの範囲についてもっと楽観的なんか?
科学ではアクセスできない部分が何なのか分からへんのよ。体験はあるし、原理的には測定できる。実践的にはまだできてないかもしれんけど、原理的にはできるはずや。他に何があるのか分からへん。申し訳ないけど、私は完全に物理学者なんよ。
有名なメアリーの部屋の思考実験があるやろ?部屋にいる女の子の話や。聴衆のために説明すると、メアリーって女の子がいて、青色について存在しうるすべての情報にアクセスできると想像してくれ。今日のウィキペディアページだけやなくて、波長についてのあらゆる情報、目の科学、脳の心理学について、彼女は読み上げてすべてのエキスパートになってるんや。でも青色を見たことはない。
でも青色について言葉で表現できるすべてのことを知ってるんや。そんで問題は、そのすべてを学んだ後で外に出て初めて青を見た時、何か新しいことを学ぶかってことや。多くの人にとって直感的な答えはイエスや。でも物理学者が青の体験についてのすべてが科学的言語で記述できるって言うんやったら、彼女がその部屋から外に出た時に新しいことを学ばへんって言うんか?それとも私が見逃してる第三の答えがあるんか?
まず最初に、色は赤やなくて青やったと思うんやけど、すげえ混乱してるわ。でもまあ、彼女の青が私の赤かもしれんしな。誰にも分からんやろ?
もちろん彼女は外に出た時に新しいことを学ぶで。突然、特定の波長の光子が目に当たって、それまでなかった反応を引き起こすからな。単純に違うことなんや。
物理的感覚入力を受けることと、その入力に対して脳が何をするかについてすべてを学ぶことは、単純に二つの別のことやからな。
なるほど。想像してみるとして、彼女が人らが赤とか青の色を見た時に体験することについてのすべての情報を持ってて、さらに脳刺激装置も持ってたとして、何をすべきか正確に分かってたら脳内の特定のニューロンを興奮させることができるとしたらどうや?彼女は赤色を見る体験ができるんかな?
私の答えはたぶんイエスや。脳がどれだけ似てるかについて俺らが知ってることから言うとな。もちろん厳密に言えば、あんたの赤と私の赤は脳が少し違うから完全に同じやないかもしれんけど、たぶん十分似てるんちゃうかな。
意識の中枢性と統一性
めちゃくちゃ面白いな。第三の選択肢として、青について青を見ずに本当にすべてを知るためには、青の体験をもたらすために脳を正しい方法で突つく方法も正確に知ってる必要があるってことやな。
もし脳をそのように突つく正しい機器があったら、実際に青いものを部屋で見ることなく青の体験をもたらして、その体験がどんなもんかを学ぶことができるってことか?
そうや。実際に光子が目に当たる必要はないんや。脳内でそれが何をするかを知ってれば基本的にはそれでええんよ。
すげえな。そうすると意識の中枢は脳やって、意識は複雑に配置されたもんの産物とかそんな感じなんか?原子が十分に複雑に配置されると、この中央集権的な意識体験ができるとか?
他の謎の一つは、たくさんの動く部品が組み合わさってるのに、なんで意識の中枢が一つの単一のもんみたいになってるんかってことやろ?
この時点ではめちゃくちゃ難しくなると思うで。実際には意識がどう機能するか正確には分からへんし、みんな独自の理論を持ってるからな。私はたぶんかなり複雑やと思うで。脳の異なる専門化された部分が異なることをする必要があるんやろうな。
科学と哲学の関係
それが最終的に哲学的問題やく科学的問題になると思う?それとも偽の区別やと思う?
哲学の領域から科学の領域に移っていくと思うで。基本的に今まさにその移行を目撃してるところやと思う。
今の時点では、意識の理論を見ると、どれもめちゃくちゃ基本的で、私にはどれも説得力がないと思うんやけど、まあ100年もすれば、あるいはAIが来て問題をあっという間に解決してくれるかもしれんな。
一部の人の間には、科学と哲学が対立してるって認識もあるな。多くの物理学者が哲学を見て、物理学者がやってることの薄められた古いバージョンやと思ってるみたいや。ローレンス・クラウスみたいな人らが哲学はナンセンスやって言ってる人らのことを考えてるんやけど。
何でも意味のある知識は科学的方法で開かれた、テスト可能なもんやっていう知識に対する経験主義があると仮定してるみたいやな。
『実存物理学』で哲学的話題と呼ばれるもんについてかなり広く書いてることを考えると、哲学全般に対するあんたの関係はどうなんや?そういう風に見てるんか、それともう少し時間をかけてるんか?
ええ哲学と悪い哲学があるって言うかな。何を見るべきかを知る必要があるんや。
でも実際には、哲学を見下す物理学者には二次的な問題があると思うんや。多くの哲学者がすべての物理学者が哲学を見下してると思ってるってことやな。だから私は哲学者からめちゃくちゃ憎まれてるんや。
私が哲学を軽視してるって思われてるからな。でも「いや、いや、私は悪い哲学やと思うもんを軽視してるだけや。汎心論みたいなな。いつかこのことについて話したいけど」って感じや。でも実際には、ほとんどの物理学者は、ローレンス・クラウスには完全に反対やけど、哲学を十分真剣に受け取ってないと思うんや。特に物理学の基礎に関してはな。
量子力学みたいなもんを考えてみ。科学がどこで終わって哲学がどこで始まるかを知る必要があるんや。物理学者は哲学に踏み込むところを見極めるのがめちゃくちゃ下手やと思う。ここで多くのことが間違ってるんや。
私は最初の本でこういう問題のいくつかについてすでに書いたんや。数学的仮定をする時に、実際には形而上学的なもんやのに違いが分からへんのよ。数学的やから要求やって思ってるんやけど、実際には自然の法則がこうでなければならないって想定してる別のもんなんや。これは大きな問題やと思うから興味を持ったんや。ご存知の通り、哲学は一度踏み込むとウサギの穴みたいなもんやからな。
アインシュタインと宇宙論的定数
物理学者が科学的世界観に無意識に埋め込む哲学的仮定について言ったことにめちゃくちゃ興味があるんや。有名な話で、アルベルト・アインシュタインが自分の方程式が有限宇宙を指してるのを見て、宇宙論的定数を方程式に加えて宇宙が永続的でいられるようにしたんや。もちろん哲学的に、宇宙は永続的でなければならないって知ってたからな。アリストテレスが思ってたみたいに、その間のみんなもそう思ってたしな。
それで定数を加えて、後で取り除いて、自分の最大の間違いって呼んだんや。アインシュタインができるような間違いは、アインシュタインができるんやったら俺らもみんなできるわけやけど、それは基本的に宇宙は永続的でなければならない、そうでなければ意味をなさないっていう哲学的仮定の結果やったんや。今はそうは思ってないけどな。
少なくともこの宇宙はたぶん永続的やないやろ。でもその哲学的仮定が、間違ってなければ、アインシュタインが最終的に方程式として完成させるもんを変えたんやな。そういう仮定はあらゆるところで出てくると思うんや。
科学のすべての分野で人らを絶対的な狂乱状態に陥れる哲学的に大きな仮定の一つが自由意志の存在やな。あんたはもう触れてるけど、特別な応用分野があるんや。
理解するのを手伝ってもらいたいんやけど、最近「実存的危機氷山」って動画を作って、実存的危機を起こすかもしれないアイデアの異なるレベルをすべて見ていったんや。
底の方のどこかに超決定論ってもんがあったんや。超決定論は決定論に似てるけど、量子領域に適用されるもんや。すべて最終的に根本的に決定されてるってことや。間違ってなければ、多くの物理学者がこれを拒否してるんや。超決定論はナンセンスやって言うんや。少なくとも多くの物理学者がそう言うのは、自由意志が存在するって仮定しなければならないからとかそんな理由やと思うんやけど。
何が起こってるのか理解するのを手伝ってもらえる?
超決定論の歴史的背景
めちゃくちゃ興味深い質問やな。これには長い歴史的背景があると思うんや。よかったら簡潔にまとめてみるで。
アインシュタインについてはもう話したな。私が知る限り、アインシュタインはこの自由意志のことについて強い感情は持ってなかったけど、ニールス・ボーアは持ってたんや。
ニールス・ボーアは興味深いことに、量子力学が非決定論的であってほしいと思ってたんや。自由意志の余地を作ると思ってたからな。これは今ではほとんどの哲学者が拒否してる立場やと思うけど、彼にとってはそれが重要やったんや。もし正確に覚えてるなら、アインシュタインへの手紙で実際にそう書いてたと思う。
コペンハーゲン解釈の父とよく言われるボーアにとって、これはめちゃくちゃ重要やったんや。
アインシュタインは自由意志とは何の関係もない量子力学への疑問を持ってたんや。でも測定過程、つまり波動関数の崩壊が光速より速いってことが問題やった。もちろんアインシュタインはこれが気に入らんかった。これが彼が「遠隔地での不気味な作用」と呼んだもんや。
彼は一生懸命試したんや。ボーアと長い議論をして、何かが間違ってるって特定しようとしたけど、最終的には失敗したんや。でも彼には、おそらく決定論的な根本的現実があるっていうアイデアがあったんや。そこでは粒子がすべて明確な性質を持ってるんや。
同時に二つのことを測定できないとか、粒子が二つの場所に行くとか、そんなことは起こってないと思ってたんや。そういうことは気に入らんかった。粒子は粒子や、粒子は一つの場所に行く、それで話は終わりやと思ってたんや。粒子がどこに行くかを俺らが知らんだけやってな。
アインシュタインが死んで、それからジョン・ベルが来て、アインシュタインの見解とコペンハーゲン解釈の違いを最終的に特定しようとしたんや。これがベルの定理の由来やねん。
彼は「アインシュタインが正しくて、この根本的現実が存在して決定論的で、不気味な作用がない局所的なもんやとしよう。崩壊みたいなことは何も起こってない。そしたらこの種の理論が一般的に行う予測は何で、量子力学とどう比較するんや?」って言ったんや。
ベルの定理と自由意志の仮定
ここからが重要なところや。彼の証明では、今はよく自由意志の仮定と呼ばれる仮定をしたんや。
実験者が自由意志を持ってるっていう仮定が、基本的にアインシュタイン型の局所理論、局所決定論的理論が不等式に従うって言う不等式を導き出すのに必要やったんや。この不等式は実験的に破られてることが分かってるんや。
もしこの仮定、自由意志の仮定をするなら、アインシュタインのアイデアは除外される。もしこの仮定を捨てたら、超決定論と呼ばれるもんが得られるんや。そしたらアインシュタインが持ってたかもしれない局所決定論的理論で俺らの観察を再現できるんや。もちろん彼がこれについてどう思ったかは分からんけどな。
これが自由意志がこの超決定論のことと結び付いた理由やねん。
問題は、彼らが自由意志で何を意味してるかを正確に見ると、哲学者が普通に、あるいは街の普通の人らが言う自由意志とは何の関係もないってことや。哲学者の話はやめとこか。
これは技術的には測定独立性として知られる仮定なんや。測定したいもんと測定設定の間の相関と関係があるんや。測定設定はコンピューターで選択できるし、必ずしも自由意志と関係があるわけやない。でもそういうところから来たんや。
これが起こった理由の一部は、ベル自身が定理の元の証明で、この仮定をしてることに気づいてなかったみたいなことやと思う。これは後に2022年にノーベル賞を受賞した男の一人、ジョン・クラウザーなどによって指摘されたんや。ベルの定理には追加の仮定があって、ベルはそれを自由意志に言及することで正当化したんや。
なるほど。突然定理に穴があることに気づいたんやな。だからこの仮定が必要な理由を考えなければならんかった。それが自由意志やったんや。
ベルの定理の理解
正しく理解できてるか確認させてくれ。奇妙な量子現象があるんや。二重スリット実験みたいなもんを想像できるやろう。波のパターンがあるけど、観察すると粒子になる。ちょっと奇妙やな。
コペンハーゲン解釈では、電子は実際には確率の雲、波動関数で、行くことができるすべての場所の確率の予測みたいなもんやと言うんや。観察すると、波動関数が崩壊して粒子が特定の場所にある。観察する時にそれが起こるんや。観察する前は大きな確率の波があるんや。
問題は、私の左手から右手に行く確率の波があって、観察して崩壊して粒子が右手にあると、左手に粒子がそこにないっていう情報が必要になることや。でもそれが瞬時に起こるから、この情報は右手から左手に瞬時に移動してるように見えて、光速より速いってことになるんや。
アインシュタインはそんなことは起こらへんって言うんや。だから電子がただの確率の雲やっていうアイデアは間違ってる。何か基礎的な性質があるはずや。俺らがまだ何かを知らんだけやってな。
その後、ベルは情報が光速より速く移動できないっていうアイデア、すべてが局所的やっていうアイデアを保持したいと思ったんや。つまり、右手にあるなら右手にとどまって、空間を瞬時に移動したりはできないってことや。この局所性を保持するために、彼はベルの定理を考え出したんや。
でもその定理は何かを仮定してるんや。科学者が実験と相互作用する方法について何かを仮定してるけど、彼はそれが仮定やと気づいてないんや。後でその仮定を指摘された時に、「もしその仮定をしなかったら自由意志が存在しない」って言って、その仮定に同意する理由としたんや。でも俺らはその仮定を否定することもできて、すべてがまだ機能するってことか?
ほぼ正解やで。不満な点を二つメモしたんや。一つは情報が移動する方法について何か言ったことや。実際には情報の交換は起こってないんや。これが大きな頭痛の種やねん。もし光速より速く情報が交換されてるなら測定できるはずやからな。
波動関数の崩壊の深刻な問題は、完全に観察不可能やってことや。実際に光速より速く進む観察可能なもんは何もないんや。もしそうやったらかっこええやろ?光速より速く情報を送れるからな。でもそうやないんや。
もう一つは、数学的にベルの定理のこの仮定は自由意志とは本当に関係ないってことや。ただの解釈なんや。数学的には物事の間の相関の一種やねん。実験者が何を測定するかを決定する選択に結び付けようとすることはできるけどな。
実際に二重スリット実験に触れたから、二重スリット実験でなぜそれが役立つかを見ることができるで。二重スリット実験の奇妙なことの一つは、二つのスリットがあって、各スリットを通る波動関数の二つの部分の干渉から来る波のパターンが得られるってことや。
奇妙なことは、一つの粒子でも、粒子一個だけでも、自分自身と干渉するために両方のスリットを通る必要があるってことや。一つのスリットだけを通ったら自分自身と干渉できないからな。
できることは、一つのスリットに測定装置を置くことや。そしたらあんたが言った通り、干渉パターンが消えるんや。粒子が「測定されてる」って分かるからな。だから一回だけ行くんや。検出器に行くか、検出器がピンって鳴るか、行かなければ他のスリットを通るかや。でも干渉パターンは得られへん。
この例から分かると思うけど、粒子が何をするか、分裂するのか一方向にだけ行くのかが、何を測定するかと相関してるなら、何が起こってるかを説明できるんや。この二つのことが相関してるなら、両方のスリットを通るのか一つだけを通るのかを教えてくれる決定論的変数があるってことやからな。
基本的にこれが超決定論の仕組みや。
超決定論の仕組み
現象の観察と実際に起こる現象自体の間、私が粒子を見ることと粒子が何をするかの間、あるいは検出器と粒子が何をするかの間に何らかの相関があるなら、問題ないんや。観察する時と観察しない時で違った行動をするのはそのためや。俺らが観察することと実際に何をするかの間に相関があるからやねん。
でもベルが仮定したのは統計的独立性や。つまり観察と現象自体の間に相関はないってことや。観察の間に相関がないってことやなくて、実際に測定するもんとの間にってことや。経路を観察するのかスクリーンでの干渉を観察するのかってことやな。
ベルはその二つの間に相関はないって仮定してるんや。でも物理学者として、その二つの間に相関があるって仮定することもできて、それはベルが間違ってたってことになるんや。少なくとも彼の定理は正しいけどな。
証明やからな。仮定ABCをして結果何々を得るって、1万人が繰り返してると思うから正しいと確信してるで。でも問題は、それが現実について何を教えてくれるかやねん。
ベルの自由意志への言及
なんでベルがこのことについて聞かれて、「経路を観察することと粒子がどこに行くかの結果の間に相関がないって仮定してるのに気づいてるやろ」って言われた時に、「ああ、そう仮定せなあかんのは、そうでなければ自由意志が存在せえへんからや」って言うんや?ベルの頭の中では、少なくともどう結びついてるんや?
めちゃくちゃええ質問やな。一つには、自由意志と決定論をどう調和させるかっていう一般的な問題があるんや。忘れてくれ、これだけでも十分難しいんや。
この時点で止まって、「決定論的やから自由意志は窓から出て行く」って言うこともできる。これが一つの答えや。
もう一つの答えは、ベルが考えてたことで、申し訳ないけど、あまりに技術的にならん方法を考えようとしてるんや。今議論したことについて考えてみ。粒子が何をしてるか、両方を通るのか、あんたがする測定と合致する必要があるんや。
何らかの形で、測定がこの相関を満たすためにちょうど正しい必要があるように見えるんや。決定論的理論でのあんたの測定の選択は、常に以前の原因から来てるんや。あんたがすることや言うことや考えることはすべて、最終的に宇宙の始まりまで遡ることができるんや。
ベルが考えてて、他の多くの人も後で似たようなことを言ってるのは、粒子が何をしてるかとあんたの測定の選択の間にこの相関が存在すると信じるなら、あんたがこれから行う選択は、粒子が宇宙の始まりまで遡って行うことと相関してなければならないってことや。
そんでそれはめちゃくちゃありえない偶然に見えるし、この二つのことがそんな正確な方法で合致するのは一種の陰謀とよく呼ばれるんや。
この議論はかなり誤解を招くと思うで。量子力学を忘れて、何かを測定する度に、「でも実際に私がこの特定のことを測定したり、物理学を勉強することを選択したり、昼食にこれを食べたりする行為には他の原因があって、それが他の原因に遡って、宇宙の始まりまで遡る」って言うことはいつでもできるからな。
いつでもそう言えるし、そしたらいつでも「ああ、宇宙には大きな陰謀があって、あんたの体のすべての原子を組み合わせて、今のあんたとまったく同じ人間が出てくるようにしたんや」って言えるんや。でも誰もこの議論はせえへん。なんで突然この特定の検出器設定についてこの議議をするんや?
この混乱はいつも出てくると思うんや。
相関と決定論の問題
私が言ってることを理解してるか確認させてくれ。ベルが仮定したのは、私の観察と実験の結果の間に相関はないってことやって言ったな。そこには相関はないって。
そして彼は「もし相関を仮定したら自由意志は存在せえへん」って言うんや。なんでか?もし私の観察が実験の結果と何らかの形で相関してるなら、実験の結果と私がそのように観察することを選択したかどうかの両方が、すでに前もって決められてるってことを意味するからや。そうでなければどうやって相関して結びつくことができるんや?両方とも何らかの以前の原因から生じない限りはな。
だから観察と効果の間に相関があるって仮定すれば、それで問題は解決するけど、自由意志はないってことになるんや。そのように観察することを決定したのは何か以前のことによって引き起こされたに違いないからやって。
ベルはこれを見て「まあ、相関があるって仮定したくないわ。なんでか?自由意志がなくなるからや。選択がなくなるからや」って思うんやけど、あんたが正しく指摘してるように、自由意志の問題はもっと広くて、それ以前の問題なんや。
よく出す例は、量子力学について話してて、量子力学にランダム性があるのかないのかって話やとしよう。すべてが決定されてるのか、量子力学に何らかのランダム性があるのかってな。
一部の人は「量子力学にはランダム性がなければならない。そうでなければ自由意志がありえないからや。すべてが最終的に決定されてるなら自由意志がなくなる。宇宙にランダム性がなければ自由意志を諦めなければならない」って言いたがるんや。
それは混乱してるんや。ランダム性があろうがなかろうが、とにかくあんたがコントロールしてるわけやないからな。量子ランダム性を保持したい理由が自由意志を保つためやっていうのは混乱してるんや。そこに到達する前に、すでに自由意志を諦める10万の理由があるからやねん。
だから量子ランダム性を保つ唯一の正当化が自由意志を保つことやとしたら、俺らはずっと前に自由意志を失ってるんや。だからそれは量子ランダム性を保つええ理由やないんや。
同じようなことがここでも適用されるんや。ベル博士、もしこの相関がないって仮定する唯一の理由が自由意志のためやとしたら、兄ちゃん、俺らはずっとずっと前に自由意志のことを忘れてるで。そんな感じやと思うんやけど、あんたが言おうとしてることと似てるかな?
ランダム性と自由意志の混乱
そうや。ランダム性の問題については完全に同意するで。人らが持ってるアイデアは、ランダム性があって何を選ぶかを選択できるってことやと思うんやけど、そしたらもちろんランダムやないやろ?だからそういう仕組みやないんや。
正直に言うと、量子力学でこの仮定がよく自由意志と呼ばれる理由の一部は、見出しで見栄えがするからやと思うんや。先週も New Scientist に自由意志の仮定についての記事があったんやけど、見出しは「この実験は自由意志を除外できる」みたいなもんやった。
超決定論のテストについてで、私はめちゃくちゃ興味があるんやけど、なんで自由意志に関連付けなければならんのや?記事を読むと面白い一行があって、もし超決定論のこの相関が本当やとしたら、自然の法則が俺らができることを制約するって書いてあるんやけど、自然の法則はいつも俺らができることを制約してるやろ?
超決定論について話す必要もないで。重力だって私ができることを制約してるやん。もしそうやなかったら法則とは呼ばれへんやろ?
超決定論がすることは、この相関みたいな新しい制約を追加することや。そうや、それはある意味で実験者ができることとできないことを制約するやろうな。行動が他のもんがすることと合致しなければならないからやねん。
壊れた車の比喩
完全に壊れて全く動かない車があるとしよう。完全に壊れてるんや。誰かがやってきてフロントガラスを叩き割ったとする。そしたら誰かが「ああ、フロントガラスを叩き割ったら車が動かんようになる」って言うんや。それは本当や。
フロントガラスを割ったら車は動かんやろう。でも元々動かんのよ。フロントガラスを割らんでも動かんかったんや。「もし宇宙が決定されてる、もし超決定論が本当やとしたら自由意志はない」。そうや、それは本当やけど、超決定論が入ってくる前から自由意志はなかったんや。
そこには多くの混乱があると思うんや。そしてあんたが正しく言ってるように、人らは自由意志と決定論のアイデアを結び付けるんや。だから宇宙が決定論的やないかもしれないって話が出ると、見出しは「見て、自由意志の余地がある」って走るんやけど、そんなことはないんや。実際に人らが思ってるほど結び付いてないんよ。
これは私がいつも要点にしようとしてることやねん。「自由意志を信じるか、それとも決定論者か?」って聞かれた時、私は「どちらでもない」って答えるんや。決定論者やないし、分からん。そのことについては不可知論者やけど、すべてが決定されてるかどうかに関係なく、自由意志は存在せえへんと思ってるで。それよりもずっと前の問題やねん。
なぜかを説明するには哲学的議論が必要やけど、今はそこには踏み込まんとこう。聞いてる人らはもうすでに飽き飽きしてるやろうからな。
汎心論への批判
でも聞いてる人らが飽きるかもしれんもう一つのことは、最近よく話してる汎心論ってアイデアやねん。すべてが根本的に意識でできてるっていうアイデアや。
そこに急にちょっと鋭い回り道をした理由は、あんたが前に悪い哲学の例は汎心論やって言ったからなんや。汎心論者を何人か番組に呼んだことがあるし、それについて不可知論的で興味深いって思ってる人もいたけど、よく分からんのよ。少なくともまだ、それは悪い哲学やって言う人を呼んだことはないんや。
なんで悪い哲学やと思うんや?
その質問に答える前に、この自由意志と超決定論のまとめについて言いたいことがあるんや。関連してると思うから。この自由意志について議論をする人らは、みんな物理学者やってことに注目するのは重要やと思うんや。
哲学者がこの議論をするのを聞いたことがないんよ。この自由意志との結び付けとそれについてのあらゆるごちゃごちゃは、物理学者から来てるんや。これが物理学者が哲学者が実際に何を言ってるかにもっと注意を払うべきやって私が言う理由の例やねん。自由意志で何を意味してるかを調べてみることもな。
物理学者が「面白い発見があって、宇宙は決定論的やない」って言うのは構わんのよ。それはかっこええし、それは物理学や。どうやって、なぜそれを知ることができるのか理解したいとは思わんけど、でもそれが自由意志が存在するかもしれんって言う根拠としてはよくないってことは知ってるで。
そういう壮大な哲学的主張をする前に哲学者と話すべきやってことやな。基本的にはそういうことや。
汎心論については、私の意見は次の通りやねん。汎心論には二つのタイプがあるんや。一つは適切に哲学的なもので、二元論の一種やねん。科学がテストできないもんや。一部の人は何かを説明してると思ってるけど、何かを説明するってことが何を意味するかについても話せるけどな。
それから汎心論には物理的要素があるバージョンがあるんや。粒子や他のすべてのもんに新しい属性、この意識属性を与えるんや。その場合、もしそれが物理的なことやとしたら物理学をやってることになって、言ってることは実際には間違ってるって私は言うやろうな。
だから選択できるんや。汎心論の理論が間違ってるか、テスト不可能かやねん。
汎心論の物理的問題
その二番目の種類の汎心論について、物理的理解の面で完全に間違ってることって何や?何を間違ってるんや?
汎心論理論のいくつかの種類には、原意識とか何とか呼ぶアイデアがあるんや。意識の小さな要素みたいなもんで、十分にたくさん組み合わせると意識が出てくるってことやねん。
もし素粒子に対して、素粒子物理学の標準模型にまだないことを何かするなら、何らかの性質があるなら、俺らはもうそれを見ることができてるはずやねん。
人間の脳で起こってることに何の影響も与えないか、そしたら意識がどう生まれるかを説明せえへんし、それともすでに測定したことと矛盾するかやねん。
申し訳ないけど、一つ言いたいことがあるんや。もちろんこの原意識は何の性質も持たないって言うこともできるで。でもそしたらまた何も説明せえへんやろ?何かの時点で何かをすることができなければならんからな。
汎心論の「なぜ」への挑戦
そしたら汎心論者の少なくとも一派が言う、宇宙の根本的な材料は意識やっていうアイデアについてはどう思う?すべては最終的に何でできてるんや?原子や。原子は何でできてる?陽子と電子や。陽子は何でできてる?グルーオンとかミューオンとかトゥルーオンとか、何て呼ぶか知らんけど、そんなもんでできてる。底まで行ったら全部何でできてるんや?
汎心論者は意識やって言うんや。ちょっとイカれて奇妙に聞こえるけど、一つ指摘してることがあるんや。なんで特定の素粒子が一つのことをして、別のことをしないように見えるんや?なんで電子は負の電荷を持ってるんや?それは他の負の電荷を持つ電子を反発するってことやねん。
汎心論者はそれを見て、科学者はなぜそうするかを説明できないって言うかもしれん。電子がそうするってことは説明できるけど、なぜかは教えてくれへんってな。もしかしたら理由は電子が何らかの初歩的な好みを持ってるからで、それが素粒子間のこの種の差別的行動を引き起こしてるんかもしれんって。
だから科学者が宇宙の根本的な材料、他の電子を反発する電子を見る時、実際には非常に初歩的な好みの形を観察してるんやけど、そういう風には考えてないだけやって。これについてどう思う?
それは何も説明してないって言うやろうな。ただの話やねん。実際に書き下して予測できない限りは、私は受け入れんで。
もちろん、すべては同じ根本的な材料でできてるって言うこともできる。それを意識と呼ぼうや。私はそれに問題はないで。これは基本的に万物理論やねん。でも名前を付けただけでは何も説明してないんや。
もしあんたが意識の材料と呼びたいなら、俺らが観察するまさにその性質を持つ粒子にあんたの意識材料がどうやって分化するかを教えてもらう必要があるんや。
ストリング理論を考えてみ。もしあんたが望むなら、なんでストリングを意識と呼ばないんや?汎心論者やったらそれで満足するんか?そうでなければなんでやないんや?さらに何も説明してないからやろ?
科学の記述的性質
人らが科学全体について行う批判の一つ、まあ批判っていうか観察やアイデアは、科学は純粋に記述的やってことやねん。これについてもよく話すし、物理学者と話すのが好きなんや。例えばブライアン・グリーンともこのことについて話したんや。
科学は物事を記述するだけで、実際には何も説明してないっていうアイデアやねん。アイザック・ニュートンが最も有名な例で、惑星がすべて互いの周りを回ったりするすべてのことについて、ほぼ完璧に記述した数学的法則を完璧に記述したんや。
でも重力が実際に何なのか、あるいはなぜその特定の性質に従って作用するのかを考える時、彼は「分からん」って言うんや。「Hypothesis non fingo」って書いてるんやねん。
一部の人はそれを科学全体に拡張してるんや。「電子は負に帯電した粒子やって教えてくれたな。かっこええやん。でもなんで?なんで他の負に帯電した粒子を反発するこんなもんがあるんや?」って言うんやねん。
この議論についてあんたはどの辺に位置してるんや?科学は完全に記述的、大部分が記述的やと思うか、それとも現象がなぜ存在するかについて実際に説明を与えてるって思うか?
あんたは説明について奇妙な概念を持ってるって言うやろうな。
まず最初に、そうや、科学は完全に記述的やと思うで。他に何をしてるって言うんや?でも仮定や仮説や公理、何と呼んでもええけど、理論の公理を作って、それを使って実際に正しい予測をすることができるなら、私はそれを説明と呼ぶし、俺らが持ってる最高の種類の説明やと思うで。
構造上、どんな理論でも、さらに説明できない何らかの仮定を常に必要とするんや。理論の基本公理みたいなもんで、「粒子は何らかの対称群を持つヒルベルト空間のベクトルで記述される」とか何とか言うんやねん。
これが理論の基本仮定で、それを使って俺らが観察することを導き出すんや。この予測力が重要なんやねん。
トランペットと電球の思考実験
一つのアイデアとか思考実験を言わせてもらうで。哲学者がよくやる、完全にばかげたシナリオを考え出すけど、ある程度は教育的であることを願ってるってやつやねん。
ここにトランペットがあって、特定の音を吹くと向こうで赤いライトが点くって発見したとしよう。静かに吹くとかすかに点いて、大きく吹くとめちゃくちゃ明るくなるとかやねん。なんでそうなってるのか全く理解できんのよ。
でも分かったのは、この音をこの音量で吹いたらこの明るさになって、もっと大きく吹いたらもっと明るい電球になるって関係を完璧に正確に記述することやねん。トランペットを吹く時に電球に何が起こるかを正確に予測する完璧な数学的記述を考え出したんや。
だから今、私は完璧に記述して予測する数学的システムを持ってるんや。試すたびに100%正確や。トランペットで特定の音を吹く時にライトが何をするかを正確に教えてくれるんや。
もし誰かが「でもなんでトランペットを吹くとライトが点くんや?なんでそんなことが起こってるんやの説明は何や?」って聞いて、私が「見てくれ、できる限りの説明はしたと思うで。将来何が起こるかを正確に予測する数学的記述を考え出すことによってな」って言ったとしたら、それは実際には何も説明してないように感じるやろうな。
私が作ってる批判を理解してもらえるか?それは科学が一般的にやってることと似てるように聞こえるんや。この素晴らしい数学的説明と完璧な予測があって、その数学的記述を使って現象を説明したって十分やって言うのは、トランペットがライトを点ける理由を予測数学モデルを考え出すことで説明したって思う人とちょっと似てるように聞こえるんやねん。
いつでももっとええ説明を求めることはできるって言うやろうな。トランペットの話に満足してないのは、もっと何かが起こってるって感じてるからかもしれんな。それは公正やで。
あんたのトランペット理論は何かを説明してるけど、説明すべき何かもっと深いもんがまだあるかもしれんのや。これらは排他的やないんよ。
リチャード・ファインマンのクリップを知ってるかどうか分からんけど、誰かが磁石がどう機能するかとか磁気についてとか聞いて、彼がめちゃくちゃ frustrated になって、簡潔に言うと、しばらく話した後で「磁気は自然の基本的な力の一つやねん。俺らが持ってる最も深い説明の一つやで。電気と磁気の力があって、他にもいくつかの力があって、他のすべてはこれから構築される」って言うんやねん。
でも科学の歴史のどの瞬間でも、さらなる説明がない最も深いレベルがいつもあるんや。「それだけや」って言えるところまで行ったんや。そこまで行ったんやと。磁気はただそこにあるんや。宇宙がそう機能してるんやと。
そしたらまだ「でもなんで磁気なんや?」って聞くことができて、もしかしたらもっと深い説明があって、もしかしたら万物理論があるかもしれん。ストリング理論が正しいかもしれんし、何か他のもんかもしれん。でも科学にはいつもこの「なぜ」の終わりがあると思うんや。そしたらまだ別の「なぜ」を尋ねることができるけどな。
説明の意味
トランペットの状況で、数学的記述を考え出したら、ある程度は説明してないように感じるんやけど、もっと説明があるかもしれんな。でも全く説明してないような気がするんや。予測はできるし、観察してることを数学的に記述してるけど、どの意味で少なくとも部分的にトランペットとライトで何が起こってるかを説明したって言うんや?その状況で「説明する」って言葉で何を意味してるんや?
隣の部屋に誰かがいて、ライトが点いたり消えたりするのを見てるとしよう。時々ライトが点いたり消えたりするんや。あんたがトランペット理論について教えたら、「ああ、それでライトが点いたり消えたりする理由が説明できるんやな」って言うやろう。
なるほど。でももし「でもなんでトランペットがライトを点けるんや?」って聞かれたら、さらなる説明が必要やろうな。でも少なくともある程度は、少なくとも探してる情報の文脈では、何かを説明してるかもしれんって言うやろうな。
でも聞いてる人に判断してもらおうや。エンゲージメントを高めよう。下のコメント欄にコメントを残して、それが説明として数えられるかどうかについて意見を言ってくれ。まだ確信してないけど、このポッドキャストをやってる大きな喜びの一つは、あらゆる異なる分野の人に尋ねることができることやねん。
言った通り、ブライアン・グリーンや他の物理学者にも同じ質問をしたことがあるんや。あらゆる種類の哲学者にも同じ質問をしたことがある。一つ明らかになってることは、誰も確実には知らないみたいやってことやねん。
でもこういうアイデアについて一緒に考える時間を取ってくれて感謝してるで。楽しかったわ。もし誰かが実存的危機に陥ってるなら、もっと言うべきことがあるし、これらのことについてもっと深いレベルで議論できるで。
あんたの本は『実存物理学』で、これだけ長い間このようなポッドキャストを聞いてる人にとっては十分魅力的なタイトルやと思うし、下の説明に載せとくで。
それでは、サビーネ・ホッセンフェルダー、来てくれてありがとう。話せて楽しかったで。
もしこの会話が気に入ったなら、ストリング理論、マルチバース、科学的説明の限界について話したブライアン・グリーンとの前回のエピソードが気に入るかもしれん。画面に表示されてるリンクをクリックして見てくれ。私の仕事をサポートしてエピソードに早期アクセスするには、alexoconor.comで私のSubstackを購読してくれ。見てくれてありがとう。


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