中世以来行方不明だった新約聖書写本コデックスH(015)の42ページ分が、マルチスペクトル画像技術によって再発見された経緯と意義を、新約聖書写本研究センター創設者ダニエル・B・ウォレス博士が解説するインタビュー動画である。失われたページのインクが対向ページに転写された痕跡を読み取ることで、6世紀のパウロ書簡写本に新たに130節が加わったこと、そしてこの写本が3世紀の教父パンフィルスの手による校訂本と照合されていた歴史的価値などが語られる。さらに、現代の聖書翻訳との関係、新約聖書27書の配列の歴史、コデックス形式の発明とその影響など、聖書本文学の最前線に関わる話題にも踏み込む内容である。

中世以来失われていた42ページの再発見
中世以降ずっと行方が分からなくなっていた、ある古代新約聖書写本の42ページが、このたび再発見されました。このニュースを掘り下げるためにお招きしたのは、ダニエル・B・ウォレス博士です。とても長い肩書きをお持ちで、新約聖書写本研究センターの創設者兼エグゼクティブディレクター、そしてダラス神学校の新約聖書学名誉上級研究教授でいらっしゃいます。私の友人である博士は、明らかにこのテーマを語るのにふさわしい方ですね。さて、今回の発見とはいったい何なのでしょうか。
これは新約聖書学者の間ではコデックスHとして知られているものです。我々の主要な写本のうち、9世紀から10世紀の初頭にかけて大文字で書かれたものにはアルファベットの文字が振られていて、それ以降の、いわゆる小文字体つまり筆記体で書かれたものには番号が付けられているのですね。さて、コデックスHについて、視聴者の方が理解できるように少し背景を説明させてください。実はギリシア語新約聖書には、コデックスHと呼ばれる写本が三つあります。それぞれに013、014、015という番号も付いています。
ただ、混乱はありません。というのも、今回問題にしているコデックスH015にはパウロの手紙だけが収められていて、他には何も入っていないからです。一方、コデックスH013には福音書、014には使徒言行録が入っています。これらは全く別の写本で、いずれも9世紀のものです。今回のものはコデックスH、別名コデックス・コアスリンアヌス、あるいはフランス国立図書館で付けられた名称でコデックス・コアスラン202と呼ばれます。つまり、フランス国立図書館がこの写本の大半の葉を所蔵しているわけですね。これは6世紀のパウロ書簡の写本で、いわゆるエウタリオス装置を備えた写本としては最古のものです。エウタリオス装置というのは、パウロ書簡に注記や構成を与えるもので、我々にとって本当に重要な情報源です。今回のものはその最古の例なんですね。我々が知る限り、装置自体は5世紀に編まれ始めたもので、これはちょうどその一世紀後にあたります。
マルチスペクトル画像が明らかにしたもの
実に魅力的なお話ですね、博士。それで、この最先端の画像技術によって何が明らかになったのでしょうか。
今回用いられたのはマルチスペクトル画像と呼ばれる先端技術で、EML、つまり初期写本電子図書館がグラスゴー大学のギャリック・アレン氏率いるチームと共同で実施したものです。実はこの42ページ分の発見は、一年以上前に『ジャーナル・オブ・バイブリカル・リテラチャー』誌で発表されていたのですが、一般の人々が知ることができるようになったのは今になってからなんです。これが重要なのは、長らく存在は知られていたこの写本について、新しい情報、新しいデータ、実際に新しい節が手に入ったからです。ただ、ここで何が起きたかを正確に説明しなくてはいけません。
実際に42枚の新しいページが見つかったわけではないのですね。我々が手にしたのは、その42ページから次のページに転写されたインクの残滓なんです。つまり、そこに書かれていた文字の鏡像を持っているということになります。それを赤外線から紫外線までを駆使して肉眼では見えない文字を読み取れる、マルチスペクトル画像という高度な機器によって発見したわけです。私のセンター、すなわち新約聖書写本研究センター、略してCSNTMでも、MSIを使ってまさに肉眼では隠れているものを発掘しています。我々は今、こうした技術によって新たなルネサンスの入り口に立っていると言ってよい状況です。ですから、この42ページは実際に新しいページではなく、今は失われたページから残されたインクであり、それによって本文を読むことができている、ということなんですね。
聖書本文の信頼性は揺らぐのか
これを見ているほとんどの方が最初に思い浮かべる疑問は、やはりこういうことだと思います。これは我々が知っている聖書の内容を裏付けるものなのか。あるいは、聖書が大きく書き換えられてきたことを示すものなのか。死海文書のようによく知られた発見もあるわけですが、今回の発見は何を示しているのでしょうか。
より多くの節が読めるようになった、ということを示しています。この写本については、これまで把握されていたものに比べてパウロ書簡で130節ほどが新たに見えるようになったと記憶しています。ただし、これは世界中で誰も知らなかった130の新しい節という意味ではなく、あくまでこの特定の写本において読めるようになった節が130ほど増えた、ということです。そしてこの写本は、いわゆるアレクサンドリア型の証言とされていて、もともとエジプトのアレクサンドリアで何世紀にもわたって行われた、最も信頼できる写しの伝統に属するものと考えられています。それが他の地域へと広がっていったわけですね。今回の発見は、現代の翻訳がパウロ書簡について伝えている内容を、まさに裏付けるものです。何か新しいことが出てきたわけではない。ただ、すでに知られている本文を裏付けるもう一つの証言が加わった、ということなんです。
パンフィルスの図書館と古代の写本伝統
今回の写本について、新たな42ページ分以外で興味深いのは、テトスへの手紙の末尾に注記がある点です。そこには、この写本はパンフィルスが作った写しと照合されたと書かれています。パンフィルスは3世紀の教父で、カイサリア・マリティマの図書館を統括していた人物です。カイサリア・マリティマというのは、ヘロデが銀の衣装をまとって神に打たれ、虫に食われて死んだとされる場所ですよね。使徒言行録の12章でその出来事が語られていたと思います。さて、このパンフィルスがその図書館を持っていて、それは古代世界において何世紀ものあいだ最大の神学図書館となりました。神学関係の蔵書、特に聖書に関するものが3万巻もあったんです。パンフィルスの前にはオリゲネスが図書館を運営していました。彼は最古の本文批評家のひとりとして非常に有名で、写本を吟味して旧約・新約双方の多くの箇所で何が原文だったのかを判断できた人物です。
エウセビオスはパンフィルスの後を継いで同じ場所で働き、キリスト教徒として最初の皇帝コンスタンティヌスは、コンスタンティノープルの新しい教会のために、首都向けの聖書を50部作るようエウセビオスに依頼しました。つまり、アレクサンドリア出身のオリゲネスから始まる慎重な写本制作の系譜が、パンフィルスを経てエウセビオスへと受け継がれていくわけです。そしてここに、その6世紀の写本が、パンフィルスが手書きで作ったパウロ書簡の写しと照合されているという事実があります。これは本当に驚くべきことです。パンフィルスがほぼ間違いなく書いたであろうものから、さらに多くの情報を得られるというのは、信じがたいほどの価値があります。
イスラム以前の写本は今日の聖書を肯定するのか
なるほど。それで、この写本の年代について興味深いのは、厳密にではありませんが、ある意味でムハンマドの時代と同時代だということです。ご存じのとおり、私たちはイスラム的視点から見た新約聖書について、これまで多くの記事を扱ってきました。実はクルアーン自体にはそう書かれていないのですが、これは興味深い点で、イスラム圏の人々はしばしば、お前たちの聖書は改竄されていると言ってきます。さて、こうした写本やその他の写本があるわけですが、少し俯瞰的な視点になりますが、これらイスラム以前の写本は、我々が今日手にしている聖書を裏付けるのでしょうか、それとも否定するのでしょうか。
そうですね、特に古いものはそうですし、後代のものでも、今日の聖書を強く肯定しています。キング・ジェイムズ訳と現代訳の違い、これは新約聖書に限った話ですが、というのも旧約は底本がほぼ同一だからです。キング・ジェイムズ訳の新約と現代訳の背後にあるギリシア語本文の差異は、約5000箇所あります。ただし、その大半は翻訳に反映できないものです。綴りの違いだったり、ギリシア語にはandを表すいくつかの言い方があるといった接続詞の小さな違いだったりします。要するに、ありとあらゆる種類の違いがあるんです。その大半は翻訳すらできないものなんですね。さらに重要なのは、過去400年間、私の知る限り、どの教派、どの神学校、どの聖書学校、どの神学団体においても、キング・ジェイムズ訳と今日のあいだで神学的な点が一つも変わっていないということです。教義は何一つ変わっていない。
「キング・ジェイムズ訳しか認めない」という人々もいて、彼らは差異について語りますが、ギリシア語本文に基づいて我々の見解が異なっているという例を、彼らはまだ一つも示せていません。現代訳は、ただより古い本文を見せてくれているだけなんです。キング・ジェイムズ訳は、その100年前に出版された9つほどのギリシア語新約写本に本質的に基づいていました。そのうち最古のものでも11世紀までしか遡れません。つまり、1611年すなわち17世紀のキング・ジェイムズ訳に対して、わずか600年前のものということになります。一方、今日我々が持っている最古の写本群は2世紀まで遡ります。そして今回の6世紀の写本は、初期のものの中でも非常に重要な一つで、それより古い写本群と本文が実質的に一致しているんです。
130節と5000箇所の差異の意味
博士、あなたとは長時間でも話せそうです。この話題は本当に魅了されますね。また絶対にお呼びしなければなりません。ただ、この対談を締めくくるために少し整理させてください。あなたは、130節の差異というお話と、5000箇所の差異というお話をされました。今、それを上手く説明していただいたのですが、特に今回の画像技術によって明らかになった部分、つまり130箇所の差異について改めて伺いたいのです。記事をいくつか読んでいると、節の位置が少し違っていたといった記述があり、それは懐疑的な人にとっては警鐘を鳴らす要素になります。なぜそれは警鐘を鳴らすほどのことではないのか、あるいは、これが実際には何を示しているのかを、もう少し明確にしていただけますか。
実は、順序が違っているのは節の方ではないんです。違うのは新約聖書の各書の並び順なんです。そしてここに、新約聖書について面白い話があります。コデックス、つまり現代の本の形式が発明される前の話なんですが、コデックスというのは紀元1世紀の半ばに発明されたもので、キリスト教時代の最初の5世紀間、もっぱらキリスト教徒がこの形式を使っていました。すべてのキリスト教書のうち94パーセントがコデックスに書かれていました。もっとも、新約聖書の原本そのものはすべて巻物に書かれていたんです。古代世界の他の地域がキリスト教徒に追いつくのには500年かかりました。つまり、これは我々キリスト教徒が技術的潮流の先頭に立った最初の、そしておそらく唯一の機会だったわけです。
しかし、一冊の写本にもっと多くのページを収められるようにしたのがコデックス形式なんです。例えば巻物では、福音書を一つしか収められません。二つは無理なんですね。コデックス形式が発明されると、新約聖書のすべての写本、2世紀以降のすべての写しはコデックス形式で書かれるようになり、複数の福音書を入れられるようになります。四つの福音書を入れることもできるし、新約聖書全体を入れることもできるし、4世紀や5世紀の写本のいくつかでは聖書全体を入れることすらできました。そこで、コデックスはある問題を生み出しました。各書の並び順をどうするか、という問題です。
新約聖書各書の配列の歴史
我々は福音書をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと考えていますね。しかしこれは最古の順序ではありません。最古の写本に見られるのは、マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコの順序です。つまり、まず使徒たちを先に置く順序だったわけです。ではパウロ書簡はどうか、福音書との関係、使徒言行録や黙示録との関係でパウロ書簡をどこに置くべきか、ということが問題になります。9世紀のある写本では、パウロ書簡が黙示録の後、新約聖書の最後に置かれています。しかし、後代の写本では、パウロ書簡は使徒言行録の直後に置かれています。
ところが今、ネストレ・アーラント第29版および昨年から今年にかけて出版された聖書協会世界連盟のギリシア語本文第6版という出版されたばかりの校訂版ギリシア語新約聖書では、つまり標準的な批評版では、使徒言行録、次に公同書簡、その後にパウロ書簡という順序になっています。これは、新約聖書の各書について我々が知る最古の順序の一つに従っていると思います。これはつまり、今後出てくる英訳においては、パウロ書簡の位置が変わる可能性があるということです。いつとは言えませんが。私はNIV訳の翻訳委員会のメンバーですが、次のNIV改訂でこれを変更案として提案するのは、まだ少し早すぎると思っています。
そして、パウロ書簡の中にも、いくつかの配列があります。ローマ人への手紙ですね。誰もが知っているとおり、これがパウロ書簡の最初に来ます。これはすべての写本で共通しています。ヘブル人への手紙は、最古の写本のいくつかでは二番目に置かれていました。また、最古の写本ではテサロニケ人への第二の手紙の後に来ているものもあります。さらに約100の写本では、ヘブル人への手紙が、諸教会への書簡の最後、個人宛ての書簡すなわち第一・第二テモテ、テトス、そしてピレモンへの書簡の前に置かれています。つまり、問題になっているのは新約聖書各書の順序なのであって、節の順序ではないんです。
これは本当に面白いですね。先ほどおっしゃった、古い写本のいくつかではマタイの次にヨハネが来るというお話、それは彼らが使徒だったからということでしたよね。そうなると、批評家たちは、ヨハネは共観…ええと、その言葉が言えないんですけれど、共観福音書ではないと言うわけですよね。
そう、そのとおりです。
それでなんとなく信頼性を疑問視する向きがあるわけですよね。今すぐ引っ張りたい糸がたくさんありすぎます。でも今のところは、友人ダンよ、本当に素晴らしいお話でした。また絶対にお呼びしなければなりませんね。改めて、本当にありがとうございました、博士。神の祝福を。
ありがとう、ラージ。出演させていただいて本当に感謝しています。


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