オックスフォード大学の数学教授ジョン・レノックスが、AI技術の発展と聖書の教えを関連付けながら、言葉に基づく宇宙の本質について論じる。数学と生物学における「言葉」の重要性から始まり、聖書の文学的構造、執筆技術、そしてAIが人間性に与える影響まで、幅広いテーマを扱っている。特にヨハネの黙示録とAI技術の類似点や、人間が神のイメージに造られた存在であることの意味について深く考察している。

AI技術と神の言葉について
まず最初に話したいんは、後でAIについても触れるつもりやけど、ヨハネ1章1節から始めたいねん。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあり、言葉は神であった」っちゅうところや。わしらは言葉に基づく宇宙に住んどるんや。
明らかに言葉について、執筆について話したいと思うとるんやけど、これがなんでそんなに深い考えなんかっちゅう出発点として、ええと思うんや。言葉に基づく宇宙っちゅう考えは、わしの人生にとって非常に重要やった。なぜなら、自然主義や唯物主義の圧力が全く正反対のことを論じようとしとるからや。意味を運ぶ言葉っちゅうんは、人間の経験において非常に高いレベルのもんなんや。
そして、言葉がベースになっとることを発見する主要な2つの分野があるっちゅう事実そのものが、宇宙の唯物主義的解釈に致命的な脅威をもたらしとると思うんや。最初は、わしの専門分野である数学や。数学の言語で、これは確かに言語なんや。ある意味で、わしらが持っとる最も正確な言語やねん。
宇宙が振る舞う方法のいくつかを、特にケプラーやニュートン、マクスウェルなんかに遡って、カプセル化することができるんや。そしてそれは宇宙の存在と働きの一部を理解するための素晴らしいツールであることが証明されとる。それから2番目に、生物学の研究は、わしらがこれまでに発見した中で最も長い言葉をもたらしてくれた。それが人間のゲノム、遺伝子コードや。34億文字の長さなんや。
もちろん化学的な文字やけど、それらは正確に意味を持つ言葉として機能しとる。なぜなら、様々なタンパク質やその他すべてをコードしとるからや。だから、物理学、化学っちゅう2つの主要な学問分野があって、それらには数学が基盤になっとる。そして生物学には、この基本的な言葉がある。
わしらの人間の経験すべてにおいて、言葉は心から来るっちゅうんが事実なんや。だから、ドアの上に「EXIT(出口)」っちゅう言葉を言うだけでええ。たった4文字や。でも、その起源を尋ねたら、人々はこの看板は作らなあかんかったし、自動化された機械によって作られたかもしれへんけど、どこかに「出口」を意味する言葉をそこに置くことを選択した心があるっちゅうふうに説明するやろう。
だから、4文字の長さの言葉に心を帰するなら、34億文字の長さの言葉に来た時に、それが偶然と必然によって起こったと言うんは、かなり奇妙なことや。わしの考えでは、それはナンセンスや。わしは意味のない説明よりも、意味のある説明を好むんや。
聖書の構造と文学的理解
聖書を読み、詩篇の詩、旧約聖書の文学に時間を費やすことが、あんたの執筆にどのような影響を与えたと感じとるか?それはなかなか測りにくいもんやな。わしらは自分の執筆において多くのことに影響されとる。
でも、おそらく説明する必要があるんは、わしには天才的な師匠がいたっちゅうことや。わしは公には科学で訓練されたけど、私的には人文学で訓練されたんや。そして50年間の師匠が、故デイヴィッド・グディング教授やった。彼は古典学者やったけど、旧約聖書のギリシア語版であるセプトゥアギンタの世界的権威やった。
彼こそが、聖書の文学がどのように機能するか、そして実際に古典的な著作のいくつかと共通してどのように機能するかを示してくれた人やった。それがわしを魅了したんや。わしはずっと文法に興味があった。学校ではラテン語に非常に熱心やったし、数学から始まって現代語まで、あらゆる種類の言語に常に熱心やった。
でも、文学において考えが伝達される方法、古代の作家たちが使った方法論のいくつかの手がかりを得ることは、非常に重要やった。そしてそれを聖書で見ることもな。だから、実際に彼と多くの研究をしたんや。長年にわたる考えや思想も含めて、それがわしの最新の黙示録の本につながったんや。だから多くのことが影響したに違いない。影響したはずや。
彼は古代文学について何を見たんや?そしてあんたは他の文学とほぼ対話しているような方法について話しとったけど、彼はあんたが見逃していた何を見たんや?
わしが以前に出会ったことがなかったんは、おそらく2つのことやった。1つは構造、もう1つは思考の流れや。言い換えると、わしが今書いた本のようなどの本でも取ってみると、それは章に分かれとる。それは人々がいつ止めて寝てもええかを知るのを助けるためや。
そして通常、これらの章は何らかのスキームを中心に配置されとる。それは地理的かもしれへんし、歴史が動く方法かもしれへんし、考えの一貫した結合を与える何らかのもんかもしれへん。わしらは単純な人々を助けるために単純な方法でそれをやる。わしらは章に1、2、3、4とラベルを付けるんや。
でも古代世界では、彼らはそれをしなかった。彼らはもっと洗練されとって、したがってもっと興味深いやり方で、しばしば繰り返されるフレーズを使って著作を分割したんや。新約聖書での典型的な例は、マタイの福音書で、マタイが間隔を置いて次のテーマのバリエーションであるフレーズを使うとこや。
「イエスがこれらの言葉を終えたとき、ガリラヤの村々に入られた」、「イエスがこの教えを終えたとき、山から下られた」っちゅうようなもんや。そんな感じのことが4、5回繰り返されるんや。
そして彼が教えてくれたんは、そのような何かを掴んだ時は、それを掴むべきやっちゅうことや。なぜなら、それが主要な分割マーカーである可能性が非常に高いからや。小さなもんもあるやろう。でも、マタイの福音書のようなものにアプローチする方法は、そのマーカーの2つを取って、その間の資料を見て、最初に2つのことを探すことや。
1つは考えの繰り返しや。なぜなら、これがセクションなら期待できるからや。例えば、マタイの1つのセクションは権威の概念を繰り返し続けて、異なる視点からそれを説明しとる。だから、それは本当に重要なことであることが証明された。だから、セクション内で思考の流れを探すんや。
だから、単に「この譬えは何を意味するのか?」と尋ねるんやなくて、先行する質問を尋ねるんや。「これは何を言っているのか?」そして彼は正しく主張したと信じとる。聖書が何を意味するかを理解することの失敗の大部分は、それが何を言っているかを見るのに十分な時間を取らないことや。
だから、それが何を言っているかを見るのに時間を取って、それから意味の質問を尋ねることができるんや。それは、なぜこの聖書の部分や譬えや出来事がそこにあって、別の場所にないのかを尋ねることを含むやろう。なぜそれがある場所にあるんか?もしあるなら、累積的な議論のどの部分にそれが貢献しているのか?
わしがそれを見た瞬間、わしはハマってしもたんや。わしはケンブリッジで18歳やった。彼がわしを聖書研究に招待してくれたんや。そしてその一夜で、それを示されたことが、本当にわしのすべての先入観を吹き飛ばしたと思う。そしてわしは始めたんや。
神の言葉の真正性について
それは面白いことやな。非常に似たようなことを感じとる。わしは何年も前にあんたが持ったその啓示を今まさに得ている過程にあると感じとる。そして、本当に印象に残ったことがいくつかある。わしらがそれについて話す方法は、観察、解釈、適用や。聖書を読む人々はしばしば「わしは何をすべきか?」に飛んでしまう。
そして非常にしばしば、それは単に繰り返される言葉、なぜこの書が書かれているのかっちゅうことや。それは非常に、面白いことに、聖書を読むことは方法論の点では非常に初歩的やったけど、わしらがやった深さと強度の点では非常に激しかった。そしてそれがわしに尋ねさせる、そしてわしはここで一種の悪魔の代弁者を演じるつもりやけど、わしは信者やけど、何かが書かれた時に神の息吹であることをどのようにして知ることができるのか?
第二テモテ3章16節を思う。「すべての聖書は神の息吹であり、教え、戒め、訓練、義における矯正に有用である」と。でも、どのようにしてそれを知ることができるのか?実際にテキストを調べて、それが神の息吹であることを知ることができるのか?それとも、それを検証する別の方法があるのか?
わしはその質問には多くの側面があると思う。知識を構成するものは何か?それが神の息吹であることを感じるように、あるいは神の息吹であるという内的感覚を持つように求められているのか?
わしの見解を述べさせてもらうと、わしは聖書から、神がそれを真剣に受け止める人々に、御言葉を通して語る準備ができていることを理解しとる。そしてキリストは弟子たちに、自分を彼らに現すと約束されたんや。実際に自分を現した例の1つが、あの上の部屋やった。それは非常に興味深い。なぜなら、それは言葉と関係があるからや。
彼らは彼にあらゆる種類の質問を続けて尋ねとった。そして突然、フィリポが彼に「父を示してください」と言った点に来たんや。そしてイエスは静かに言われた。「フィリポ、わしを見た者は父を見たことを実現していないのか?わしが話している言葉は、父が話しておられるのだ」と。
そして、わしが思うに、フィリポや他の人々に、神がどこか遠くの何かではなく、今まさにここにいて、彼らができるだけ近づいた父に到達したという、その畏敬の念を感じさせるものがやって来たんや。そしてイエスが言っている言葉が、その事実を認証しとるんや。
だから、それがわしらが聖書にアプローチすべき方法を示しているように思える。逸話の形で話すことができるなら、わしの師匠が一度わしに「なぜ聖書を研究するのか?」と尋ねたんや。
わしは言った。「今のところ、いくつかの聖書研究をしなあかんし、あちこちで説教もしとる」と。彼は「ああ、それでもええと思うけど、それがわしが聖書を研究する理由やない」と言った。わしはかなり驚かされた。だから、「なぜ聖書を研究するのですか?」と言った。
彼は「神を知るためや」と言った。今、それは全く違うレベルの態度や。そしてそれは当時のわしを揺さぶった。わしはそれを通して非常に大きな教訓を学んだ。もしこれが本当に神の言葉なら、論理的に、神がそれを通して自分自身を認証することを期待するやろう。
それについての議論や、文献的証拠の観点からのその真正性の詳細によってやない。それらは重要で非常に有用やけど、神が実際にそれを通して語るっちゅうことや。それはすべての他のものより上のレベルや。そしてそれが最終的に価値のある唯一のレベルのように思える。
そして、神が語るのを感じることが、クリスチャンとしてのわしの人生にとって重要やった。今、それをどのように定義するかは、田園風景の美しさを定義しようとするのと少し似とる。それはほぼ不可能やけど、それが起こったときはわかるんや。
もちろん、わしら自身を欺くこともできるし、精神分析医はこの種のことすべてで大騒ぎするやろう。でも最終的には、神が本当にそれが真実であることを知り、その基盤で神が何をわしらに期待しているかを知るような方法で語るのを本当に感じるかどうかは、わしら自身の成熟度と判断にかかっとるんや。
だから、それは明らかに複雑や。なぜなら現実は常に複雑やからや。でも、それでもわしが期待することであり、したがって、講演や記事を作成するプレッシャーの下にあるからではなく、実際に神を知りたいから聖書に行くなら、それがあんたの質問に対するわしの鍵となる答えやと思う。
畏敬と驚きの重要性について
あんたは「畏敬」っちゅう言葉を使ったけど、それは「畏れ」であり、神秘や驚きのような言葉と関連しとる。そして、わしが自分の思考について考える時、5年前には存在しなかったけど今は存在する、わしの思考生活の核心的な規律が何かを考えると、それは驚きの涵養やと思う。
わしは以前、世界は何かを説明する能力で終わると非常に感じとった。でも今はそんなふうには感じへん。そして、わしは答えよりも多くの質問を持っとる。でも、神への信仰は、わしを新しい驚きの入り口に開いてくれたと思う。
それはCS・ルイスが何年も前に言ったことと並行しとる。「わしは太陽を信じる。それを見るからではなく、直接見るのは危険やから、その光の中ですべて他のものを見るからや」と。言い換えると、神への信仰は探求を閉ざすのではなく、それを開き、驚きの次元を導入するんや。
そして、今日のメディアについて非常に悲しいことの1つは、デイヴィッド・アッテンボローのような人々によって作られた、世界や宇宙についての素晴らしいテレビドキュメンタリーがあることや。でも、「これに責任を持つ何と畏敬すべき神か」と言ってほしいまさにその時に、何もない。
そして彼らはそれを見るけど、まだ見ていない。盲目さがあるんや。そして盲目さは、あんたが瞬間的に言及したレベル、つまり人々が説明には多くの異なるレベルがあることを実現せずに、何らかのレベルの説明に満足しているというレベルでやって来るんや。
どういう意味か?わしが意味するのは、自動車エンジンまたはあんたの国で言う自動車エンジンを説明したいなら、物理学と自動車工学などすべてに頼ることができて、科学的説明を得ることができる。でも、ヘンリー・フォードについても話すことができるけど、それは異なる種類の説明や。それは目的を持った行為者の観点からの説明や。
そして、わしはしばしば人々に言うんやけど、彼らが「科学は宇宙の説明として神と対立するのか?」と尋ねる時、わしは「絶対にない」と言う。科学は、ヘンリー・フォードが自動車の説明として物理学、化学、自動車工学と対立しないのと同様に、宇宙の説明として神と対立することはない。それらは補完的なんや。
そして説明について、わしはそれに魅力を感じとるし、かなり書いてきたけど、それはしばしばあんたが思うより完全やない。科学からの例を挙げさせてくれ。わしは若い人として物理学をあまりうまく教えられなくて、重力の法則が重力を説明すると思っとったけど、そうやない。
ニュートンでさえそれを実現しとった。彼は「ノン・フィンゴ・ヒポテセス」という有名なラテン語のフレーズを発したんや。「わしは仮説を作らない」と。言い換えると、重力が何かわからない。でも、その効果を計算できる数学的定式化をあんたに与えることができる。
確かに、でもそれはそれが何かを言うことやない。実際、今でさえ誰も、そしてあんたの故ノーベル賞受賞者リチャード・ファインマンに尋ねることができるけど、彼は死んどる。彼はカリフォルニアで最高の1人やった。誰も重力が何かを知らない。だから、科学的説明でさえ、明らかにそれ自体では完全やない。
説明には多くの多くの異なるレベルがある。そして、説明に専念する膨大な文献があって、それは確実に、誰かが「ああ、わしはそれの説明を得た」と言う時、わしが非常に警戒するのに十分や。そして彼らのレベルの説明が神の説明を除外するという概念は、実際愚かなんや。
驚きと畏敬の窓を閉ざした原因
世界で何が起こって、わしらが驚きと畏敬へのこの窓と、わしらすべてが持っとる種の招待を閉ざしてしもたんやろう?そこで起こっていることを見つめて、わしらが知らない何かもっとあるかもしれへんと尋ねる招待を。
なぜなら、この近視眼を受け入れることによって、わしらが実際にアクセスできる考え、物語、それが何であれ、の観点からわしら自身を制約してしまったように感じるからや。
わしはそうやと確信しとる。でも、それを説明するのは非常に複雑や。歴史的には、それは啓蒙主義と理性の向上、そして神の仮説を信用失墜させ、ある程度反科学的やった告白するクリスチャンの悪い行動と関係がある。それにはあらゆる種類のことが関与しとる。
でも、わしが実際に好きなのは、イアン・マクギルクリストがこれについて彼の著書、特に彼の最新の「物事との問題」で与えている説明や。彼は神経科学者として指摘しとるのは、わしらが実際にやったことは、わしらの脳に2つの半球があるっちゅう彼の用語でいうと、1つは大まかに言って、物事が何かを見つけ出す科学の側面や。
そして、もう半分、脳の右側があって、それは物事が何を意味するかを見とる。そして彼は言った、もしわしらを今見るなら、わしらはほぼすべてがどのように働くかを知っとるけど、何の意味も知らない宇宙に終わったと。
それは非常に強力な論点や。そして、わしらの故チーフラビのサックス卿によって取り上げられた。彼は常に読む価値があり、非常に読む価値があるんやけど、彼は科学と宗教についての小さな本を書いて、マクギルの考えをこのように表現した。
科学は物事がどのように働くかを見るために物事を分解する。宗教は物事が何を意味するかを見るために物事をまとめる。今、マクギルの論点は、500年ほどの間、わしらは脳の左側にそのような強調を置いたので、右側を省略した、そしてしたがってわしらはほぼすべてがどのように働くかを理解し、何の意味もない宇宙に住んどるっちゅうことや。
そして彼は、したがって、超越的なもの、素晴らしいもの、美しいもの、そして神のための空間を求めとる。わしは彼がどこから来とるかを理解しとる。この態度で、左脳が少し少ないっちゅうことは、彼が聖書の教義について少し懐疑的やっちゅうことを意味する。
そして彼は自分自身でわしにそれを言った。聖書の教義について懐疑的?そう、それがあまりにも左脳的に見えるからや。でも、もちろん、その本につながった彼の研究もそうであり、それは彼をそんなに懐疑的にすべきではない。
でも、わしはイアンの考えが好きや。なぜなら、わしはその分析だと思うし、明らかに今日それに対する多くの反発があるからや。なぜなら、それは唯物主義に対する科学的議論であり、人々はそれを好まないからや。唯物主義に対する宗教的議論やったら、彼らは単にそれを笑うやろう。でも、神経科学の内部からやって来ると、それは非常に異なる問題や。
でも、わしには、その風船に穴を開けるのはほとんど簡単に見える。なぜなら、わしらは情報時代に住んどるからや。そして情報は、それが何であれ、そしてそれは困難やけど、物質的やない。それは通常、物質的な基板上で運ばれる。それらのページ上の情報は、紙とインクっちゅう物質的な基板上で運ばれるけど、それ自体は物質的やない。
だから、それは宇宙に非物質的な実体があることを意味する。まあ、それはわしに関する限り、哲学としての唯物主義の終わりや。それほど単純なことや。でも、それは議論の多くで難読化されとる。
神が詩で語る理由
わしの牧師が数ヶ月前にわしに尋ねたんや。「なぜ神は詩でわしらに語るのか?」わしはその質問に唖然とした。今でもそうや。それはわしが取り組もうとしていることの1つや。そして、あんたの黙示録についての新しい本を読んでいると、あんたは文学について話しとる。何が言われるかは何が言われるかと同じくらい重要やと。
そして、ここに本当の執筆の教訓があると思う。スタイルは内容と同じくらい重要やと。相対的重要性について話すことはできるけど、両方が非常に重要であるという事実は明らかや。なぜなら、聖書の一部は意図的に想像されるように書かれているからや。
そして想像力は人間の生活の非常に重要な部分や。そしてそこに詩と音楽がやって来て、マクギルの用語で言うと、わしらの脳の右側を養うために何かを供給するんや。
そして、わしらの心を開いて、想像的な言葉や隠喩や直喩やあらゆる種類の修辞技法の踏み石を持たせ、それらのものによって指し示されるけど、想像的な方法でそれらのものによって表される世界に導いてくれるんや。
悲しい悲劇は、わしが発見するのは、若い人々が自分自身の言語の文法を学ばず、隠喩や直喩を理解しないっちゅうことや。だから彼らはそれらについて、特に黙示録の書に関して、大きな間違いを犯すんや。
典型的な態度は「ああ、その書はシンボルでいっぱいや。したがって、それは本質的に幻想的で空想で無意味や」っちゅうもんや。そして、わしがCS・ルイスから英語について多くを学んだルイスは、直喩や隠喩は現実を表すため、現実を指し示すために使われることを指摘した。そしてわしらは簡単にそれを説明できるんや。
文学を理解しない非常に極端な端にいる人々がいて、彼らは聖書には隠喩がないと言う。文字通りに取らなあかんと。これはおそらくこれを説明する最良の方法や。そしてわしは「ああ、本当に?イエスは『わしはドアである』と言った。それを文字通りに取るのか?」と言う。
まあ、それは一部の人々を当惑させる。彼らは何を言ったらええかわからない。イエスは文字通りのドアやない。そして、ここに非常に重要な点がある。彼は木や金属でできた文字通りのドアやない。彼は本当のドアなんや。彼は神の霊的経験への本当の入り口なんや。
そして、文字通りとの違いは、文字通りっちゅうのはほとんど役に立たない言葉や。なぜなら、基本的な文字通りのレベルはそんなに使われてないからや。それは初めに使われる。「神は天と地を創造された」と。まあ、それらは物理学者が研究する実際の天と地、文字通りの天と地や。
でも、それから「神は言われた、光あれ」と。どういう意味か?「神は言われた」って、神は声帯と肺を持っとるんか?まあ、ない。神は霊や。だから、すぐにそこで、あんたは隠喩の領域にいるんや。でも「神は言われた」は空想やない。
神はわしらが理解しない方法でコミュニケーションを取る。ある意味で言葉であるものを発して世界が創造されることの意味について、わしらは何の概念も持ってない。それがどのように機能するかについて、わしらは何の概念もない。でも隠喩的言語は豊かにし、踏み石を提供する。そして黙示録の書でも同じことが真実や。
シンボルや隠喩が大量にあるけど、それらすべてが例外なく現実を表しとるからや。そして、それがわしの本で話している基本的なことの1つや。
あんたが現実を表すと言う時、わしを具体的に助けてくれ。わしが一種魅了されとるのは、イエスが剣を持って帰って来るけど、剣は口にないっちゅうやつや。だから、あんたが現実を表すと言う時、何が起こっとるんや?その剣を見るとき、それは明らかに非常にシュールや。
でも聖書はあんたがそれを解釈するのを助けてくれる。神の言葉は両刃の剣のようなもんや。そして口にある剣は1章のビジョンで見られる。そして彼は裁判官として装っとる。そして剣は最もシュールなアイテムやないけど、火の炎のような目もある。
かなりシュール。そしてその後起こることは、7つの教会への手紙で、キリストの描写のアイテムの1つがその教会に適用されることや。「火の炎のような目を持つ者がこれらのことを言う」と。そして、その教会への手紙にあることを読むと、それは彼らが振る舞っている方法の批判や。
言い換えると、これらの目は何が起こっているかを見とって、彼らは悔い改める必要がある。そして剣でも同じや。もしあんたが悔い改めなければ、別の教会に、わしは来て、わしの口の剣であんたがたと戦うやろう。
そして、聖書の言語自体の観点でそれを解釈するなら、彼は来て、御言葉の剣を適用し、彼らを扱うつもりや。パウロがコリントに言ったように、もしあんたがたが悔い改めないなら、わしは来てこれを整理するつもりやと。だから、それらのすべてのものが現実を表すことを理解するのに困難はないと思う。
執筆における自己批判の重要性
これについて教えてくれ。あんたが執筆する時、議論を作ることと自分自身を批判することの両方についてどのように考えるか?わしは、あんたがファインマンの「自分の仕事を理解し批判するために常に後ろ向きに曲がれ。なぜなら騙すのが最も簡単な人は自分自身やから」っちゅう台詞が好きやと知っとる。
その通りや。だから、執筆過程でこれをどのようにやっていくか?まあ、いくつかの基本原則があると思う。ファインマンの原則があるけど、別の原則もあって、それはわしが執筆している時に自分自身に尋ねるのは「これはどのように理解できるか?」っちゅうことや。
そして次の質問は「これはどのように誤解されうるか?」や。そして、それは非常に有用なことや。最初の質問よりもはるかに有用や。通常、あんたは執筆によって伝えたいことを知っとる。でも「これはどのように誤解されうるか?」と言うなら、非常に簡単な例をあげさせてくれ。
あんたは父としての神について話したいとする。あんたの聴衆の中に、父の概念が毎晩酔って家に帰って来て、母親と場合によっては彼女自身を虐待する人である若い女性がいることを実現してない。
だから彼女の父の概念は関連しないやろう。だから「わしはどのように誤解されうるか?」に入って、すべての人の父の経験が同じやないという事実に開放的であることによって、それを修正しなあかんやろう。そして、わしはそれを非常に重要やと思う。
次のことは、あんたが書いたものを人に読んでもらうことを許可するほど誇り高くないことや。どういう意味か?まあ、あんたが出版する前に人々にあんたのものを読んでもらい、最高の批判を求めることを許可することや。
だから、例えば、わしは現在自伝をやっとる。自伝は厄介や。なぜなら、それには「オート」っちゅう言葉が入っとるからや。自己やろう?そして大きな困難の1つは、もちろん、あんたが自分自身について書いていることや。
それに関連する落とし穴をどのように避けるか?だから、わしは出版会社に話して、本当に批判的になる最高の編集者が欲しいと言うんや。そして、わしは非常に痛いけど非常に有用やった最高の編集者を得たんや。
彼らはあんたに何を言ったか?ああ、あらゆる種類のことや。あんたは今、自伝について以前知らなかったことを何を学んだか?
簡単なことや。エピソード的になる危険性や。もしあんたが多くの講演をした人なら、危険は、あんたが物語を構築しようとして疲れて、「まあ、わしはライプツィヒに行ってXについて話し、それからベルリンに行ってYについて話し、それからケネッツに行ってZについて話した」と言うことや。そしてそれはエピソード的になり、深さがない。長さしかないんや。
そしてそのような簡単なことや。そして、もちろん時々困難や。あんたは前にベリタス・フォーラムに言及したけど、わしはベリタス・フォーラムで多くの講演をしたから、火曜日にテキサスに行ってオースティンで話し、それから水曜日にデンバーに行った、などと言うことができる。
そして、それらの時代に起こった個々の特定のことで、これを興味深い何かに肉付けしない限り、最終的に退屈になるんや。だから、わしの特定の編集長は、その種のものに対して容赦がなく、わしにそれを指摘するだけや。これを省くか、付録に入れるか、このようなことをしろと。
だから、わしは批評家から多くを学んだし、読んで批判してくれる友人がいる。
AIと黙示録について
黙示録に移ろう。つまり、あんたはちょうど黙示録の書について新しい本を書いたけど、それがAIとどのように交差するかについても書いとる。そしてわしは、非常に基本的なレベルの質問から始めるつもりやけど、あんたはAIで起こっていることを恐れているか?
イエスでもありノーでもある。多くのことがあると思う。わしはナイフを恐れとる。良いナイフ、鋭いナイフは手術に使うことができる。殺人にも使うことができる。そして、この国では現在、ナイフ犯罪の流行がある。14、15歳の若い子供たちがクラスで仲間を殺しとる。
だから、「そう、わしはナイフを恐れる。なぜなら多くの人々が損傷を受け、生涯不具になったり殺されたりしているからや」と言うことができる。でも、それがあんたの質問の実際の趣旨やないことをわしは知っとる。
それはAIによって引き起こされる将来についての基本的な不安の程度があるかどうかや。そして、それは確実にそうや。わしはAIができて素晴らしくやっているいくつかのことに感謝しとる。
OpenAIのDeepMindによるタンパク質折り畳み問題の解決は、全くの天才の業や。博士号を持つ人が1つのタンパク質がどのように折り畳まれるかを理解するのに5年かかっとった。彼のOpenAI、DeepMindのプログラムは1日か2日で20万個を扱う。それは全く新しいゲームや。
でも、わしはAIには2種類あると思うし、わしらはそれらを分けなあかん。現在実際に機能している普通のものがあって、それは狭いAIや。狭いAI システムは、通常人間の知能を必要とする1つのことだけをする。X線で病気を発見するようなもので、それに素晴らしい。
それは今、X線写真などから病気を認識する平均的な医者よりもはるかに優れとる。そして、それは素晴らしい。そして、AIは単なる1つのものやないから、あらゆる種類の例がある。おそらく何百万もの異なるAIシステムがあるっちゅうのが最良の言い方やろう。そして現在動作しているもののほとんどは狭いAIや。すべての成功を持つChatGPTでさえもそうや。
でも、わしが気づくのは、思考のリーダーの中で、彼らの一部は恐れて走っているように見えることや。そして彼らは非常に知的な人々で、特に制御問題と呼ばれるものを恐れとる。わしらが制御を失い、これらの非常に先進的なシステムのいくつかで、わしらがよく理解せず、完全に飼いならしていない何かが起こっているという。
だから、あんたは多くの誇大宣伝と憶測を得る。わしらはオフにされることを拒否するAIを構築できるか、このようなすべてのもの?AIは最終的にわしらを破壊するつもりか?そしてマックス・テグマークのような真面目な物理学者を得る。彼はプリンストンかMITか?どちらか覚えてない。
でも、マックス・テグマークは『Life 3.0』っちゅう本を書いた。そして彼は将来のための12の異なるシナリオを持っとる。慈悲深いAI、専制的なAI、このすべて。そして大規模や。
でも、彼が最も注意を払うものは、AIがアマゾンのシステムのいくつかを活用して、世界全体をその制御下に置く全体主義的な世界経済政府に変わることや。そして彼はこれに言及し、詳細に説明する。
それから彼は、この種の政府がすべての市民にApple Watchの機能性と多くを持つブレスレットを着用することを主張できると言う。それは着用者が言ったすべてを聞き、彼らがしたすべてを見るやろう。そして、もし彼らが党の路線から外れたら、着用者に致命的な毒素を注入して殺すことができるやろう。
今、わしがそれを読んだ時に魅力的なのは、それについて書いているのはテグマークだけやなく、彼は真剣に良い物理学者やっちゅうことは、黙示録の書の予言のいくつかと、特にわしがモンスターと呼ぶもの、しばしば獣と呼ばれるけど、わしはモンスターがより良い言葉やと思う、について、ほぼ正確に並行しとることや。
そこでは、印を持ってない限り誰も売り買いできず、印は右手か額になければならない。それが正確に何かは言ってない。そして、もし彼らが線から外れたら殺される。まあ、それは一部のこれらの人々が予測していることと同じや。
わしは最近ピーター・ティールの講演に行った。そして、わしは彼に次の質問をした。「ピーター、わしがあんたを正しく理解しているかどうか。あんたが技術を見る時、わしがまだ言及してない監視技術の観点で、中国全体にすべて展開されているもので、全体主義に向かって動いているのを見るか?」彼は「はい」と言った。
そして、わしは「第二に、あんたが聖書の聖典を見る時、それと平行する何かを検出し、したがってそれに追加の信憑性を与えるか?」と言った。そして彼は検出すると言った。だから、それは興味深かった。なぜなら、時々彼は理解するのが最も簡単やないからや。
そして、わしには、AIの教父であるジェフリー・ヒントンを含む、まさにトップの多くの人々が見えるように思える。彼はGoogleを辞めたので批判できるようになった。そして彼はAIがわしらを本当の危険に晒すまでのタイムスケールをはるかに短い時間に修正した意見を持っとる。
もちろん、イーロン・マスクは同じことをしたことで有名や。そして、実際に技術についてかなり知識のある一部のこれらの人々は、何が起こるかを恐れとる。わしは長い間この分野の主要なプレイヤーに話したんやけど、「彼らがわしらに言っていない何かが起こっていると思うか?」と言った。
そして彼はしばらく考えて、「わしが観察し聞くことから、あんたが正しいかもしれない」と言った。そして、怖いことは…何かが起こっているっちゅうのは何の種類や?
まあ、彼はもちろん言うことができなかった、なぜなら知らなかったからや。でも、これらの人々を恐れさせる何かが起こっとる。そして、もちろん、それから神を構築するっちゅう考えの平行したものがある。
そして、あんたはデータ宗教とAI宗教の概念と、ハラリが「宗教について知りたいなら、教会ではなくシリコンバレーに行け」と言うことを見る。
わしは詩篇115章8節を考えとった。「それらを作る者はそれらのようになり、それらを信頼するすべての者もそうなる」と。わしらは神のイメージではなく、人間のイメージでこのAIを作っとる。
ああ、それは全く正しい。そして、それは偶像崇拝の左と右や。そう、そうや。そして、それは別の軌道や。わしは多くの軌道を分ける。問題は、それらが混乱することや。
最初は、小さなgで神のような超知的人間を作ることや。それがハラリや。そして、それは2つの方法のうちの1つで行われることになっとる。まず第一に、既存の人間を強化し、彼らの遺伝学やその他すべてを再設計することや。
2番目の方法は、シリコンのような非生物学的ベースから始めて、人間によって創造されるけど、彼らを超越するある種の実体を構築することや。それらが2つの主要な道筋で、一部の人々は一緒にそれらをやろうとしとる。
だから、それがあるけど、それから疑問がすぐに生じる。これは神を演じることか?これは別のバベルの塔か?そして、それは天に届こうとする塔のような欲望に非常によく似ている。
そして、わしは創世記の本に関連して摩天楼についてかなり読んだ。それは非常に興味深い。つまり、それは文字通り本の中の最古の物語や。もしあんたが摩天楼に関する文献の一部を読むなら、この引用に出会うやろう。
すべての摩天楼の背後にはさらに大きなエゴがある。それは非常にきちんとそれを表現する。そして、これらすべての傾向がある。そして、わしが聖書がわしらに与えているのを見るのは、これが何かをあんたが精密に言うことができる識別ではなく、それが何を表すか、何を表すかをある程度の精密さで言うことができるっちゅうことや。
あんたは、人々は歴史を通して獣またはモンスターが何かについて推測してきたことを見る。そして、それは教皇からヒトラー、スターリン、毛沢東まで、ほぼすべての人やった。彼らはそれが誰かに興味がある。人々は聖書が実際に言うことに興味があるようには見えない。
聖書はわしらにそれが何かを教えてくれる。666という数字。それは人の数字や。それがそれについて恐ろしいことや。聖書は、それが何かをわしらに正確に教えてくれる。それは人間や。そして、それがそれについて全く恐ろしいことや。
あんたが好きなら、これは人間や。そして、第二テサロニケの明白で率直な言語で、パウロは若いクリスチャンたちに、神であると主張する無法の人がいると言った。それは黙示録の書の場面に完璧に適合するように、わしには思える。
そして、現代の物理学者や思想家がこれについて話している時、わしらがそれについての聖書の洞察を真剣に受け取る時が来とる。わしの議論は非常に単純で、それはわしの黙示録の本で最初に生じるのではない。わしは『2084』っちゅう本を書いた。
そして、その本で、わしは見て、もしわしらがテグマーク、ハラリ、そして他の多くの人々が作る種類の議論を真剣に受け取る準備ができているなら言った。まあ、わしはなぜわしらが戻って、それらと不気味なほど密接に平行する聖書の記述を真剣に受け取らないのかと言いたい。そして、その真実のためのはるかに多くの証拠がある。
そして、そこでの最後の点は、全体のアイロニーは、このAI超知能のレースが神を作り、神になるレースやっちゅうことを言うことや。聖書のメッセージは、神が人間になったっちゅうことや。それは逆の方向に行く。そして、それは非常に強力な考えやと思う。
冗談やない。そして、それはわしの次の質問に導く。これは多くの点で、LLMがわしより賢くなるのを見て来たっちゅうことや。わしより賢くなる。そう。ある種の点でや。ある種の点でや。ありがとう。
でも、それは落胆させられとって、それがわしに生産的な社会の一員であることは何を意味するかを尋ねさせた。人間であることは何を意味するか?そして、それがあんたに尋ねたいことや。それは何か?過去数年間に展開されたものを見ることが、人間であることの意味についてのあんたの概念をどのように変えたか?
まあ、それはわしをこの全体の分野に導いた質問や。わしは数年前に、AIについての講演、クリスチャン指導者の会議への導入を求められたんや。そして、わしは「専門家を得て専門家になる方法がわからない」と言った。または彼らは「あんたは誤解している。わしらはあんたに創世記が人間であることの意味について何を言っているかを話してもらい、それをわしらの一日の議論の基礎にしてもらいたい」と言う。
だから、わしは準備を始めて、非常に急速にこれは多くの作業を必要とすることを見た。創世記についていくつかの考えがあるから、わしはその話をしたけど、それがわしの最初の『2084』につながったんや。4年離れた2つの『2084』がある。昨年の1つと2020年の1つ。それはそれほど速く進んでいる。
そして、それは人々を心配させる人間性の再定義や。今、CS・ルイスはこれを非常に明確に見た人の1人や。わしがすべての信者が読むべきやと言う2冊の本がある。1つは『人間の廃止』で、もう1つは『その恐ろしい強さ』や。彼のSF小説の3冊目や。
そして彼は1940年に予見的に見た、あんたは知っとる、このすべての哲学が人間がついに人間ではなく人工物を生産することにつながる場所を。そして彼はこの身も凍るような文がある。人間性の最終的な勝利は人間の廃止やろう。
なぜなら、彼らが生産するものは人間やないからや。それは人工物や。彼らはわしらが今人間のゲルムストリームと呼ぶものをいじって、それらを変えたやろう。だから、わしには創世記に戻ることが非常に重要であるように思えて、創世記の初期の章でクリスチャンの心を満たすことが。
わしらの道徳的存在と地位の観点から、創世記1章26節は西洋文明のすべてを基盤にしとって、わしらはまだその資本で進んどる。そして、それは神のイメージの考えや。そう、神は人間を自分のイメージに作った。神は星を自分のイメージに作ったということやない。
それらは神の栄光を示すけど、神のイメージにはない。それは非常に異なることや。あんたは実際に星よりも重要なんや。だから、そのイマーゴ・デイを探求することは、非常に非常に重要なことやと思うけど、真空でそれを探求するんやなくて、これらの試みの文脈でそれを探求することが。
なぜなら、この超知能創造神の推進力の多くは無神論者やからや。あんたはそれに気づかざるを得ない。だから、それは神、神の唯一性、神の創造の尊厳、神の栄光、そのすべてに対する攻撃やっちゅう意味でもある。もちろん、そうや。
そして、聖書が初めからあんたに教えることは、あんたが対抗する最大のものは元の嘘やっちゅうことや。もしあんたが神と神の言葉を否定するなら、あんたは神のようになるやろう。だから、わしらは始めた場所に戻る。
言葉に基づく宇宙。創世記1章では、創造の基盤として言葉がある。「神は言われた」そして「神は言われた」。でも創世記3章では、蛇による言葉の否定があって、それが世界に破滅をもたらす。そして、それは話す蛇や。
人々があんたが上がるであろうと示唆した話す蛇に耳を傾けることは驚くべきことや。あんたは善悪を知る神のようになるやろう。そして、それについて犯される間違い。UC、わしはサンディエゴやと思うけど、有名な蛇の道がある。あんたはその蛇の道について知っているか?
それは道の形をした大きな蛇で、丘を上って行き、その口は大学図書館の入り口で止まる。そして、底に小さなエデンの園があって、蛇がそれの周りに巻いている。そして、全体のアイデアは、人間が無垢を離れて大学図書館の知識を得ることを奨励されるっちゅうことや。
そして、わしはそこでベリタス・ワールドに話していて、大きなリスクを取った。わしは彼らに言った、「わしは世界の最も重要なメッセージの1つのこのような露骨な誤解を見たことがない」と。驚いた沈黙。
わしは言った、「これは神が彼らが善悪の知識の木を食べることを妨げたという誤解や」。そして、あんたはそれを知識の木に変えた。それは知識の木やなかった。庭には多くの知識があった。実際、科学はそこで始まった。神は「動物に名前をつけよ」と言った。それは知識でいっぱいやった。
善悪の知識の木、それはあんたが欲しくない知識や。まあ、わしはほぼ暴動を引き起こしたと思う。でも、とにかく、それは非常に興味深い。なぜなら、このいわゆる蛇の道の芸術家の表現での物語、そしてそれは有名や。あんたはそれを調べることができる。
そして、それはわしの考えでは、芸術がどのように強力に嘘をつき、元来伝えることを意図されていたメッセージの正反対のメッセージを伝えることができるかの例や。
AIの使用について
だから、わしは2つのことが起こっていると思う。1つは、わしらが話したAIの構築や。知りたいのは、あんたはAIを使うか?そして、もしそうなら、これをより良く考え、より良く書くために使うという方法と、いや、全体が悪魔的な力のようなもので、わしはそれを自分から遠ざけるつもりやという間で、どのように考えるか?
まあ、わしはスマートフォンを持っとる。そして、もしあんたがスマートフォンを持っているなら、AIを使うことを避けることはできない。なぜなら、Amazonで何かを買う時、それは軌跡を拾い上げて、新しいものを買うことを提案しとるからや。
だから、あんたは事実上それを避けることはできない。そして、もしあんたがインターネットに接続されたコンピューターを使い、Microsoft Wordを使うなら、物事を説明し、あんたを助けるあらゆる種類のポップアップを得る。
それを使わない日々は長い間過ぎ去ったけど、それは主人ではなく召使いになることができる。そして、それがあんたを支配する危険や。今、ChatGPTを取ってみよう。わしはアイデアを集めるのにかなり有用やと思う。
なぜなら、それはわしが持ってない知識を画面に持って来てくれるからや。でも、それはわしを喜ばせたいから、その知識を幻覚して発明しているかもしれない。だから、わしは多くのチェックをすることを強いられる。でも、それでもええ。
わしはそれをGoogleを調べるのと同じように思う。わしらはバビロニア帝国についてあまり知らない。だから、わしらはそれをGoogleで調べる。そして、AIについて少し恐れている人々でさえ、それについて2度考える人はいない。そして、ある意味でGPTは、許可なしにしばしばもっと多くの文献を消化したそれの非常に洗練された形や。
そして、わしは人々に言う、あんたはそれを使うことができるけど、注意しろと。例えば、もしあんたが教会の牧師で、土曜日の夜遅くに映画を見て、それから寝る前にChatGPTから30秒で説教を得るなら、それはあまり霊的な力を持たない可能性が高い。技術的に正確であったとしてもな。
もしあんたがChatGPTに、例えば、三位一体の教義が何かを教えてくれと頼むなら、それに欠陥を見つけるのは困難やろう。機械には霊的な力がない。そして、わしは人々にこれを言うのに疲れる。これは機械や。
それは考えない。あんたが機械には霊的な力がないと言う時、どういう意味か?
まあ、それが霊を持ってないという意味で。それは単に機械や。それは純粋な計算力、予測的計算力で、それは持ってない、まあ、それは持ってない、別の言い方をさせてくれ、知能、それはシミュレートする。
それは本当の知能やない。そして神が人間に対してしたことは、知能を意識と一緒にすることや。これらの機械は意識的やない。また、それらが意識的になる可能性も非常に簡単な理由でない。誰も意識が何かを知らない。
だから、人々が「ああ、それは意識的や」と話し始める時、それは愚かや。今、ここには哲学的で道徳的で倫理的な巨大な質問がある。つまり、わしらはこのすべての道徳的で倫理的な側面について話してない。
なぜなら、今使われているものでさえ、AIの危険は、ディープフェイクと欺瞞の観点で恐ろしいからや。そして、再び、それはイエス自身の彼の到来についての声明にあんたを導くやろう。欺瞞のために注意しろ。それは主要な問題や。
そして今、わしらはディープフェイクによって作られた欺瞞が世界にあらゆる種類の混乱を導く可能性があるとわしらに警告する世界のトップの人々、ファイブアイズを持っとる。だから、それは深刻な問題やけど、それがわしらが住んでいる世界や。
そして、わしの個人的な感情は、科学的な心を持つクリスチャンがAIに入っていくのはええことやろうっちゅうことや。そうすれば、彼らは倫理のテーブルに座ることができるからや。なぜなら、1つのことが非常に明確やからや。技術は倫理よりもはるかに速く動く。
でも技術は部分的に、わしは信じとるけど、わしらは神のようになるやろうによって駆動されとる。言い換えると、もしわしらができるなら、すべきやと。そして結果を気にするなと。そして、それは非常に危険な態度や。なぜなら、世界のどこかで誰かがそれをやろうとするからや。
執筆と思考の教育について
もしあんたがよく書くこと、よく考えることについて学期の長いセミナーを教えるとしたら、カリキュラムをどのように構成するか?
わしは全くわからん。それは初めて聞く質問や。あんたが見る、わしはその種のことを教えることの大きな信者や。あんたは実際にそれをすることによって、それを期待すると思う。執筆について、あんたは何が執筆で、どのようにそれをするかについてのコースを、実際に執筆することなしに実行することはできないと言うやろう。
聖書を研究することと同じようにわしには思える。人々はわしに言う、「まあ、聖書を研究する方法を教えてくれ」と。まあ、わしがそれをすることができる唯一の方法は、あんたとそれをすることやと。そして、それは大きな挑戦で、それがわしが執筆のコースを提供しない理由や。
その忌々しいことをしろ。そう、そう。あんたは執筆者として改善し始める方法。まあ、人が改善する方法は経験と外部批判を許可することやと思う。わしはそれが主要なことやと思う。そして他の人のものを読むこと。それは非常に重要や。
そして聞いて、人々と話すこと。わしは、わしらがあまりにも多く話し、あまりにも少なく聞く時代にいると思う。そして、わしは2つの耳と1つの口があると言われた。その割合でそれらを使う方がええ。
でも、それは良い文学を読むことでもある。つまり、わしが執筆で何かを達成したと思う時はいつでも、わしはただルイスの本を読むと、それは正しくわしをサイズダウンさせる。言葉を使う純粋な天才や。つまり、あんたはそこにある種の基準を持っとって、あんたは自分の執筆に鏡のように持って来るべきや。
CS・ルイスの隠喩の文法
まあ、そう。あんたはCS・ルイスの隠喩と挿絵の文法について話しとった。それについて教えてくれ。
最も単純で明白なことは、ルイスがわしに教えたのは、隠喩は現実を表すっちゅうことや。もしわしが「わしの心は壊れている」と言うなら、わしはこの文字通りのポンプを指しとるのやなくて、非常に現実的な経験を指しとる。または「車が道を飛んでいた」と。それは文字通り飛んでいたのやない。
つまり、それは非常に速く行っていた。隠喩は速く行くためのもんや。だから、それは文字通りのもんやなくて、現実のもんのためや。そして、そのような単純なこと、ほとんどの人は実現したことがない。だから、聖書が同じことをする時、彼らは非常に混乱しとるんや。
ジョン・レノックス、どうもありがとう。まあ、ありがとう。わしは実際にそれを非常に楽しんだ。良いものや。


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