数学者ロジャー・ペンローズが、意識が単なる計算プロセスではないことを論じた講演である。ゲーデルの不完全性定理を出発点として、数学的理解には計算を超えた何かが必要であり、それが意識に関連していると主張する。量子力学の波動関数の収縮という非計算的プロセスが意識の鍵となる可能性を示唆し、脳内のマイクロチューブルにおける量子現実の役割についても言及している。

意識と計算の根本的な問題
今回の講演では、エンジニアが意識を構築しようとする際の問題を見てきた。すべての感覚を統合し、大量のエネルギーを使用して、それらが何らかの感情に似たものへと発展することを期待せなあかんのやけど、もしそれができへんかったらどうやろう。もし古典的な世界における単なる計算では、意識を持つのに十分やないとしたらどうやろう。
最後の講演者はもちろん、長い間このことについて考え続けてきたロバート・ロジャー・ペンローズや。我々は彼が時間を作ってこのことについて話しに来てくれたことを非常に幸運に思っとる。
ペンローズの問題提起:数と理解の関係
ありがとうございます。長い間私が興味を持ってきた主題についてだらだらと話す機会を与えてもろて。タコやコウモリなんかの興味深いことについて話すつもりはあらへんし、明らかに意識と関係がある感情についても話さへん。退屈な古い数、主に自然数について話すつもりや。
自然数とは何か。それは0、1、2、3、4などを意味する。「など」と言うとき、みんなわかってもらえると思うけど、それ以上は言わへん。
私が本当に話したいことは、約70年前にさかのぼる。私は70年前にこの講演をできたかもしれん。少なくともその大部分は。というのも、これはケンブリッジの大学院生やった時に受けた講義から生まれたもんやからや。
私は自分の専門とは全く関係のない3つの講義コースを受講した。3年は長いし、専門分野に関係のない他のことに初期の年を費やすことができると思ったんや。もちろん私の専門は純粋数学やった。それは愚かな考えやった。結局時間内に終わらへんかったからな。それでも私はハーマン・ボンディの一般相対性理論の講義を受けた。これは後の人生で大きな影響を与えた。素晴らしい講義やった。
また、偉大なポール・ディラックの量子力学の講義も受けた。これも大きな影響を与えた。しかし、私がやるべきことと何の関係もなかった3番目の講義コースは、スティーンという人による数理論理学のコースやった。これは本当に数、0、1、2、3、4などについてやった。
数学では、3+2=5のようなことや、それより大きな数や、コンピューターができるような巨大な数について言いたいだけやない。すべての数について何かを言いたいんや。学校で学ぶはずや。今でも学んでるかどうかはよくわからんけど、最近の子供たちが学校で何を学んでるのかはっきりしないが、数学的帰納法という過程がある。
数学的帰納法では、すべての数について何かが真であることを、いくつかのことを証明するだけで示すことができる。すべての自然数nについて何かが真であることを示したい場合、nについて真なら n+1についても真であることを示す。それが一つ。そしてn=0について真であることを示す。そうすればすべての数について真であることがわかる。
この考えに私は本当に魅力を感じた。有限の数のことをするだけで、すべての数、すべての自然数について何かが真であることを示せるんや。自然数と言うとき、非負の整数を意味しとる。
この講義コースは、クルト・ゲーデルによる有名な結果について話した。私はこの考えがあまり好きやなかった。数学で証明できないことがあるということを示しているように思えたからや。その考えは全く好きやなかった。とにかく、そのコースを受講した。魅力的やった。
コースの最初の部分は、計算可能性という概念についてやった。これはもちろんコンピューターがすることの重要な部分や。その名前の通りや。それは興味深かった。しかし、彼はゲーデルの有名な定理について話した。それは私が思っていたものとは全く違うものやった。証明できないことがあるということやなくて、何やったか。
ゲーデルの不完全性定理と理解の問題
ある証明に使える特定の事柄の集合があるとしよう。数学的証明では、特定の公理の集合があり、そして特定の手続きの規則の集合がある。これらの公理があって、それらをさまざまな方法で組み合わせることができる。示そうとしている結果を得ることができれば、例えば、簡単な例では、2つの偶数を足すと別の偶数になるということや。
それほど簡単やない例では、ラグランジュによる命題、声明、定理がある。興味深い定理や。偉大なレオンハルト・オイラーがそれを証明しようとしたができなかったから、非常に興味深い。つまり、すべての自然数は4つの平方数の和であるということや。これは良い例で、すべての数について語っている有限の声明で、証明するのはそれほど簡単やない。それでも証明できる。
証明とは何を意味するか。通常、それは公理と手続きの規則の集合があり、それらを正しく使って、これらの公理と手続きの規則からこの結果を導出すれば、証明を得たということを意味する。
ゲーデルは何をしたか。彼は非常に巧妙やった。その巧妙さの詳細には立ち入らへん。いくつかの点でかなり巧妙やけど、彼が示したのは、事実上「私はそれらの規則によって証明可能やない」と言う声明を作ることができるということやった。それは明確な数学的声明で、それを構築することができる。解釈すると、これらのことが何を意味するかがわかり、どのように構築されるかがわかる。そして、もし理解すれば、これらのことが何を意味するかを理解すれば、それは「私は」、つまり声明が話しているとすれば、「私はあなたが与えた規則によって証明可能やない」という意味や。
まあ、それは偽かもしれんと言えるかもしれん。しかし、もしそれが偽なら、それは規則によって証明可能で、したがってそれは真でなければならん。真でなければならんが、規則によっては証明可能やない。
これは非常に奇妙や。真であることがわかっている何かがある。どうしてそれが真やとわかるのか。それらの規則を使うことによってやない。なぜなら、それは規則によって証明可能やないからや。なぜそれが真やとわかるかというと、規則がなぜ真理だけを与えるのかを理解しているからや。
これは本当に注目すべきことやと思う。規則がなぜ機能するかの理解が、規則を使うことよりも多くを与えてくれる。それは何を意味するか。規則が何を意味するかを理解するとは何を意味するか。それはこの厄介な言葉「理解」や。
理解とは何か。それは意識を含む何かや。言語の通常の使用では、ある実体が何かを理解するかしないかと言う。「理解」という言葉を使うことで、少なくとも自分がしようとしていることを認識していることを暗示する。
何かが意識さえせずに何かを理解できるか。通常の使用法ではそうやない。人々はそれについて議論するかもしれんが、「理解」という用語の通常の使用法は、少なくともそれが考えていることや行っていることなどを認識していることを意味する。
認識、認識、意識。だから、これは意識と関係があることを暗示しているように思える。約70年前に言ったように、私は私の講演のその部分を与えることができたかもしれん。そして私は考え始めた。私も物理主義者やから、我々の頭の中で何が起こっていても、物理法則に従わなければならんと信じている。
だから、それらの法則が何であれ、何かでなければならん。それらはコンピューターに搭載できる何かかもしれん。そうすれば、それらは計算可能になり、そしてゲーデルのことの困難に戻ることになる。
私にとって、それは物理法則の何かでなければならんように思える。私は物理学者やから、我々の頭や タコの頭で起こっていることの組織と関係がある何かで、魔法的な何かが入ってくるということやない。そこで何かが起こっていて、物理法則に従って作用しているが、本当に計算可能な何かやない。
始めに言ったように、私が受けたスティーンのコースには計算可能性の概念やそのようなものが含まれていて、それが何を意味するかをぼんやりと理解していた。多かれ少なかれ、それはコンピューターに搭載できるものを意味する。
これは、何をしているかを理解することには、コンピューターに搭載できるものを超えた何かがあることを示している。もちろん、人々はそれについて議論するかもしれん。
物理世界で非計算的なことが起こっているということを示す強いケースがあると思う。そしてそれには意識のこの現象も含まれる。しかし、その後、物理世界で何が非計算的である可能性があるのか疑問に思い始めた。
物理学における非計算性の探求
コンピューターに物事を搭載する。ニュートン力学、確かにそれを進めることができる。マクスウェルの方程式はどうか。これらのことで少し問題がある。これらのことについて少し心配せなあかん。これは本当の心配やと思う。なぜなら、これらの物理法則は連続体に依存しているからや。それらは単に自然数0、1、2、3、4についてだけやない。自然数の間の隙間を埋めることに依存している。それは些細な問題やない。
私はまだ取る見解を持っているが、それが本当の問題やない。連続体と正確に一致しなくても、コンピューターに物事を十分にうまく搭載できる。それらを近似できる。その議論に可能な欠陥があると思う。私はしばしばそれについて疑問に思ったが、ここで私が取っている道筋を取ろう。
自然数でコンピューターを機能させるために連続体に十分近づけることができるということやない。当時、コンピューターは一般相対性理論をするのがそれほど得意やなかった。一般相対性理論、アインシュタインの重力と時空などの理論、その理論をコンピューターに搭載して、通常の方法で近似をしている。
今日では、これらのコンピューターで素晴らしいことができる。LIGO検出器では、ブラックホールが衝突して重力波を生成していることがわかり、信号は非常によく計算されており、何が起こっているかを正確に知っている。だから、これは非常に計算的な問題や。そこにはない。
だから、連続体やそのようなもののこれらの理論と直接関係があるわけやない。量子力学はどうか。量子力学は少し不明確やった。私がディラックの講義に行ったと言ったシュレーディンガー方程式はどうか。これらの方程式がどのように機能するかを学んだ。単純な微分方程式やが、多くの変数があるため使用が困難な場合があり、かなり使いにくい場合もある。しかし、それでも同じ意味での計算や。
量子力学が何かを除いて。量子力学は何か。それは2つの部分から成る。人々はこのことをあまり強調しない。アインシュタインとシュレーディンガーは確実にそうした。彼らは量子力学は何らかの意味で完全やないと言った。後で学んだディラックでさえ、量子力学は完全やないと言った。
私はそれよりももっと失礼になるつもりや。それは完全やないだけやない。それは完全に正しくない。なぜそう言うのか。量子力学とは何か、何が主題か。波動関数、状態ベクトルと呼ばれるものがある。シュレーディンガー方程式は、その状態ベクトルまたは波動関数が時間とともにどのように発展するかを教えてくれる。
今それが何かがわかれば、10分後に何になるか、100年後に何になるかがわかる。だから、シュレーディンガー方程式によると、それは決定論的方程式や。それをコンピューターに搭載して、好きな精度でできる。
しかし、世界はシュレーディンガー方程式を満たさない。これを非常に残酷に言っている。量子力学が完全に正しくないと言うとき、これが私の意味や。なぜか。
量子力学の理論は、シュレーディンガー方程式以外の何かに依存しているからや。それは波動関数の崩壊と呼ばれる、やや無礼な呼び方をされるものや。シュレーディンガーは波動関数がどのように発展するかを教えてくれるが、世界は完全にそれをしない。時々、それは何か他のことをする。
時々とはどういう意味か。シュレーディンガーがこのことを強調し、彼の有名な猫について話すことでこのことを作った。人々はしばしば、私の見解では、これを誤解する。彼らは、もし実際に猫をその中に入れることができる本当に微妙なシステムがあれば、シュレーディンガー方程式によれば何が起こったかを正確に計算できれば、同時に死んでいて生きている猫を作ることができるということを示していると言う。
それはシュレーディンガーが言っていたことやない。彼は「これは不条理や、何か間違っている」と言っていた。彼が何か間違っていると言うのは正しかったと信じている。何か間違っている。
波動関数の崩壊と量子現実
波動関数の崩壊とは何か。人々は通常、波動関数を見るか何かする、それを測定する、それに対して測定を行うと解釈する。これは異なる手順を採用することを意味する。シュレーディンガー方程式に従わない。確率の列を与える別の手順に従う。これやこれやこれやこれの確率や。それがその段階でやることや。シュレーディンガー方程式で何か他のことをする。波動関数を崩壊させる。測定を行う。
システムが環境に関与すると非常に複雑になり、異なる手順を使うということを教えてくれる理論がある。そのすべてには立ち入らへん。ランダウとフォン・ノイマンによる有名な定理があり、環境を考慮に入れれば、特定の手順に従い、この確率の列を得ると教えてくれる。
それを注意深く見ると、実際には私が二重の騙しと呼ぶもの、つまり存在論的スイッチを含んでいることがわかる。つまり、理論が現実世界とどのように関係するかについて特定の見解を持ち、そしてそれを何か異なるものに変える。
技術的には、波動関数から密度行列と呼ばれるものに変更し、そしてそれを異なる波動関数の確率混合に戻す。そこで騙している。二重の騙しをしている。非常に良い騙しやと言うだろう。正しい答えを与える種類のもので、本当に印象的なことや。
ランダウとフォン・ノイマンがしたことがゴミやったと言っているわけやない。絶対にそうやない。非常に巧妙やった。しかし、これには二重の存在論的シフト、言ってみれば2つの騙しが含まれている。良い物理学者になるには、適切に騙す方法を知る必要がある。それが考えの一部やと思う。
それは良い、ゲームの一部やが、何が起こっているか、本当に何が起こっているかを見ることがより重要や。
私は、私の講演の最初の部分のために、起こっていることは計算可能やない何かでなければならんという見解を取った。これはこれらのことについての通常の見解やなかった。人々はしばしば私について、まあ、私は意識についてだらだらと話していて、実際には数学の特定の領域やそのようなもので関係する、この微細な小さなことについて話しているだけやと言うだろう。
それが感情や、天哪、青とピンクが与える異なる印象について言わなければならん主要な問題と何の関係があるのか。確かに、それらは完全に異なって見え、完全に異なって感じる。私はそれについて何も言うことがない。もちろん、脳の特定の条件で青とピンクがどちらかについて混乱する様々なことがある。私はたまたまその問題を持っていないが、私は何も言うことがない。全くわからん。
私が何か言うことがある小さな微細なことは、この計算可能性の問題や。これは意識の中で、理解の中で、この意識が雇用されている非常に特殊な方法で何かが起こっていることを教えてくれる。理解を含むので重要な方法で、そして何らかのレベルでの世界の世界の理解は絶対に重要や。
我々が聞いたタコについても真やと確信している。彼らは何が起こっているかについて何かを理解しており、それは彼らにとって非常に重要や。
理解とは何を意味するか。それを意識していなければならんが、それは一方向に回っているだけで、我々の感情や青と紫やその他について多くを語っていない。しかし、我々が探そうとしている意識のことが、私が話したこれらの理論のいずれをも超えた何かに依存しているように思えることについて何かを語っている。
量子力学の不完全性と非計算性
しかし、量子力学での手がかりを私は主張する。なぜなら、それは不完全か、私の失礼な表現では完全に正しくない、ある意味で間違っているからや。システムが十分に大きくなると、これらの重ね合わせが同時にここにあるというようなことになる。
それがディラックが言っていたことや。彼が与えた説明を完全には理解しなかった。窓の外を見つめていたことを知っている。彼が言ったことを見逃したが、それはおそらく良いことやった。なぜなら、それは私が彼が言ったことを理解しなかったことを意味し、おそらく彼が言ったことは、それを滑らかにして問題について心配するのを止めるような何かやったからや。そのような何かやったと確信している。
私はその部分を理解しなかったので、それ以来ずっと問題について心配した。一体何が起こっているのか、現在の物理学にはない何かで、波動関数の崩壊を含み、それは物理的プロセスで、その法則は我々が知らない何かで、私が主張するには計算的やないということや。
もしお望みなら、私がそれが真剣にある可能性があると見ることができる唯一の場所や。可能性は少しあるが、これが最も可能性が高いと思う。波動関数の崩壊の中に、純粋な計算可能性を超えることを可能にする、物事を理解することを可能にする、我々の現在の理解を超えた何かがあるということや。
人々はこれをあまり好かないと思う。現代のコンピューターはもちろん、無限のことをしないからや。私の講演の始めに言ったように、無限について語ることができる。厳密な方法で真剣に語ることができ、コンピューターができるかどうかは関係ない。
私が学んだこれらの非常に初期の結果のいくつかを覚えている。スキューの定理というものがあった。当時、それは今日のどのコンピューターでも近づくことができないほど絶対に巨大な数で、この結果が真であることを見るためにはこの数を超えなければならなかった。これはたまたま数論の数のことやった。それであなたを煩わせることはしない。
とにかく、私が持っていた見解は、この理解の質が数学と関係があるということやない。それは単に、我々の物理的理解を超えた何かの役割を見る方法や。
これはすべて昔のことや。70年前やないかもしれんが、約50年前にその講演をすることができたと言うとき。しかし、これについてのある考えがあり、それははるかに最近のものや。
波動関数の崩壊と相対性理論の関係
私は波動関数の崩壊についてもう少し理解しようとし、それが相対性理論とどのように関係するかを理解しようとした。それは相対性理論と非常に奇妙な関係を持っている。この例を挙げよう。
初期の頃、人々は波動関数について心配し、それはある意味で実在するのかと言った。波動関数が何かを知っている数学者は「いや、それは複素数や」と言った。ああ、それは私の意味やない。それは本当にそこにあるのか、それとも我々が計算で使う何種類かの人工物なのか。
アインシュタインは、やや印象的な条件を提示した。彼は、何かが実在であるとは、それに対して測定を行うことができ、この測定が確実にイエスを与え、システムを乱すことなく現実を与えるということやと言った。
私が今言おうとしていることは、それは現実を与えるが、少し奇妙な種類の現実やということや。私がそれを量子現実と呼んでいるものや。異なる種類の現実があることを指摘する。古典的現実と量子現実があり、それらは全く同じやない。
主な違いは、古典的現実では、それを確認できるということや。ここで私の棒を取って、「こんにちは棒、あなたの形は何ですか」と言うことができる。それは「私はここまではほぼ円筒形で、別のわずかに小さい円筒で、端に小さなスパイクがついている」などと言うだろう。正確に形を説明できる。まあ、十分近く。
それが古典的現実のようなものや。「こんにちは状態、あなたの状態はどのようなものですか」と言うことができ、この記述を与えることができる。量子現実はそのようなものやない。
良い例を挙げよう。電子のスピン、それはスピン半分粒子の例や。電子のスピンの状態は、私の親指の方向のようなある方向を取り、その方向について右回転で回転していると言って記述できる。すべてのスピンの状態は、ある方向について右回転で回転している。
それが量子現実や。状態を見つけて、「こんにちは状態、どの方向に回転していますか」と知りたい場合、それは私を無表情に見て、「そのような質問には答えません。方向を提案してください」と言う。
私はこの状態がある複雑な実験から生まれたことを知っているので、その方向について回転していると思うかもしれん。「あなたはたまたまその方向について右回転で回転していますか」と尋ねることで確認できる。そしてスピンは「うん、毎回正しく理解した」と言う。
それが量子現実や。しかし、「どの方向に回転しているか教えてください」と言うと、「いや、そのような質問には答えません」と言う。それが違いや。
だから、アインシュタインの現実の考えについては真やが、それは量子現実で、この種の現実は理解することが重要や。時間に関して非常に奇妙に振る舞うからや。
EPR実験と時間の奇妙な性質
私はこれを研究し、一度これについて記事を書いた。それを確認できないという事実が重要やと思う。それを確認はできるが、確認はできない。EPR実験と呼ばれる実験がある。アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン実験やそのようなものがあり、非常に奇妙に思える。
信号がアリスとボブから送られる可能性があることを示すように思える。アリスとボブは常に2人や。アリスはスピン半分粒子を持ち、ボブは別のものを持っている。彼らはスピンゼロの段階から始まり、そして互いに反対にスピンする。
アリスが測定を行うと、瞬時にボブの状態が反対方向に進む。それよりも悪い。時間を逆行する前に、彼のものが反対方向に進む。それは相対性理論と矛盾するか。いや、それは量子現実やからや。
ボブは自分の状態に「どの方向に回転しているか」を尋ねることができない。「たまたまこの方向に回転していますか」と言って、答えを得ることができる。その区別を知ることが重要や。量子現実は時間に関して非常に奇妙に振る舞うからや。時間を完全に逆行するわけやないが、それにかなり似たことをする。
これを私が書いた本『皇帝の新しい心』に関連させることが重要やと思う。これらの考えに最初に取り組み、半一般向けの本を書いた時や。若い人々にインスピレーションを与えるかもしれんと思った。私の本を読む十分な時間を費やすことができる引退した年配の人々からのコメントしか得られへんかった。
しかし、その後、若い人々からもメッセージを得た。それは良かった。私の本を読んだスチュアート・ハメロフから連絡があった。彼は私に戻って言った。「あなたは明らかに」彼はそれよりももっと丁寧やったが、「明らかにマイクロチューブルについて聞いたことがないでしょう」
私はホジキン・ハクスリーの神経伝播理論について学んでいて、量子状態を保存したいなら、それは絶望的やということに気づいた。それはしない。環境を過度に乱すし、意識が単なる神経伝播によるものやないなら、何か他のものがなければならん。彼は「マイクロチューブルはどうか」と言った。
その話には立ち入らへん。重要な話やと思う。量子現実概念を必要とするマイクロチューブルに何かがある合理的な可能性があるように思える。実際にはもっと何かがある可能性がある。スチュアートが取り組んでいる特定の考えがあるが、私は今やこれらのことをすべて追いかけていない。
脳の特定の層があることを私は学んだ。神経生理学について初歩的なことを学んだ。明白なことの一つは、大脳と小脳が異なるということや。大脳にはこの愚かな交差がある。一部の人は「ああ、それは間違いやそのようなもの」と言う。いや、間違いやない。
もう一つは小脳で、その間違いを犯さなかった。いや、小脳は右側が正しい方向に行き、左側は左側によってコントロールされ、コントロールする。この愚かな交差はない。
だから大脳はこのすべてのクレイジーなことをやっている。理由があってやっている。その理由が何かはわからんが、単なる神経伝播以上の何かが起こっていることは明らかや。彼がそれについて正しいと思う。
私は脳のこれらの2つの部分の間に何か異なることがあることを知らなかった。そして彼は、マイクロチューブルがすべて異なる組織やそのようなものを持つパラミアル細胞と呼ばれる特定の細胞があることを指摘する。それには立ち入りたくない。私自身それを理解していないが、主張は、何かを見ることができるかもしれんということや。
ベンジャミン・リベットの実験と時間の謎
私が心配していた別の問題は、物事が起こるように思えることや。私の本『皇帝の新しい心』で、私はベンジャミン・リベットによるこれらの実験に言及した。これらは、実際に何かを体験する時の時間的なことについて非常に奇妙なことを示すように思える。
何かや他の意識的な感覚がいつ起こるか、そして時間が何らかの奇妙な方法ですべて混乱しているように思える。それは何らかの意味でそれが遡及的であるかのようにほとんど進む。ある意味でそうかもしれん。
古典的な、つまり量子現実はそれをすることができるが、古典的現実はできない。因果関係の問題を起こさないよう細心の注意を払わなければならんが、量子現実なら問題を起こさない。
詳細については話したくない。まず、詳細を理解していないし、第二に、それは他のみんなを混乱させるだろう。しかし、脳で起こっていることに、この量子現実概念を含む何かがあるかもしれんということは言いたい。
ベンジャミン・リベットによって行われたこれらの非常に奇妙な実験は、意識体験のタイミングについて非常に困惑することがあることを示すように思える。それが関係する方法を見ると、卓球選手のことを考える。私は若い頃に卓球をしようとしたが、明らかに決断を下さなければならん。ボールを右に弾くか左に弾くか。
相手がどこにいるかを判断し、この方向に弾けば相手に予想外になる可能性が高いと思う。その思考、そのような非常に迅速な種類の思考は、現在の見解によると、意識的に行うには速すぎる。無意識でなければならん。
しかし、私は「いや、いや、私はそれを意識的に考えていた」と思った。しかし、見解は、意識体験に関与する量子現実について何かがあることに気づけば、これをできるかもしれんということや。
私はこれを何らかの心の軽い感触として出しているだけや。これについての理論は持っていないが、コンピューターよりも確実にはるかに微妙な問題である可能性があることを示している。量子現実と古典的現実の間のこの概念の違いを含む可能性がある、はるかに微妙な何かが起こっている。それは現実世界にあるものや。現実世界にあるが、確実に時間的順序やそのようなことに関して非常に奇妙や。
ありがとうございました。


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