ジョーダン・ピーターソン:ニーチェ、ヒトラー、神、精神病質、苦しみと意味 |レックス・フリードマン・ポッドキャスト#448

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Jordan Peterson: Nietzsche, Hitler, God, Psychopathy, Suffering & Meaning | Lex Fridman Podcast #448
Jordan Peterson is a psychologist, author, lecturer, and podcast host.Thank you for listening ❤ Check out our sponsors:

ジョーダン・ピーターソンとの対話、これは彼がレックス・フリードマンのポッドキャストに2回目に登場したときのものや。新しいピーターソン・アカデミーの一部として、ニーチェについての講義シリーズをしはったんやけど、その講義は強烈やったな。矛盾や緊張感、ドラマ性、アイデアにがっちり食らいついて、でもそのアイデアと格闘してる感じ、そういうとこ全部が、なんかニーチェっぽいもんを感じさせるわ。
ほな、彼は文体的にも、物事へのアプローチの仕方でも、大きな影響を与えてくれはったな。それに、ワイに影響を与えた他の多くの人たちも、ニーチェの影響を強く受けてはったしな。ワイが初めて彼の著作に出会うたときは、ほんまに衝撃を受けたわ。知的な密度が濃すぎて、他にこれに匹敵するもんがあるかどうか分からんくらいや。
ドストエフスキーくらいかもしれんな。でも、彼はもっと言葉数が多いけどな。ニーチェはめっちゃ簡潔や。それは彼が病気やったからってのもあるんやろな。一日中考えとって、書く時間があんまりなかったから、短い警句的な文体に文章を凝縮したんや。そういう文体を目指すのは、ほんまにすごいことやと思うわ。それに、ドストエフスキーみたいにエキサイティングな作家でもあるし、ダイナミックでロマンチックな感情表現もできる。ほんまにすごいもんや。だから、その講義シリーズをするのはめっちゃ楽しかったわ。『善悪の彼岸』の前半部分についての講義シリーズをしたんやけど、あれは素晴らしい本やで。その一部を取り上げて、それが何を意味するのか、そしてニーチェが書いてから何十年もの間、どんな風に反響してきたのかを説明するのは、ほんまに楽しかったわ。
せやな、めっちゃ良かったわ。一文一文を真剣に受け止めて、分解して、ほんまに格闘するんや。そういうアプローチで文章に向き合うには、その人に対する深い敬意が必要やと思うわ。そういう敬意を持って文章に向き合えば、オーウェルでもええし、他の多くの作家でも、一つ一つの文章に深く踏み込んでいけるんちゃうかな。
せやな、そういう偉大な作家たちは、書いたもんのほぼ全てが注目に値するからな。ワイはニーチェがある意味でその究極の例やと思うわ。ワイが本を読むとき、なんらかの方法で印をつけるんやけど、よく覚えておきたいところがあったらページの角を折ったりするんや。でも、『善悪の彼岸』みたいな本やったら、そんなことできへんわ。
ページごとに印がついてまうから、ほんまに対照的やな。今ワイが読む本の多くは、以前に出会ったことのないアイデアがほとんどないんやけど。でも、ニーチェみたいな思想家の場合は、そんなことはあらへん。文章のレベルでそうなんや。ワイが知る限り、ニーチェほどそういうことを極めた人はおらへんと思うわ。他にも同じくらい価値のある思想を持つ人はおるやろけど、ワイは最近ミルチャ・エリアーデの作品に戻ってきてな。彼はルーマニアの宗教学者で、あんまり有名じゃないけど、もっと知られるべき人物やと思うわ。彼の作品は、大学全体が採用してる、ポストモダンの虚無的なマルクス主義的な文学解釈の流れに対する、ほんまのアンチドートになると思うわ。エリアーデもそういう感じやな。ワイは『聖と俗』っていう本をかなり使ったんやけど、11月中旬に出す本の中でな。それも同じような感じで、無限に分析できるんや。エリアーデは宗教的なアイデアの歴史全体を歩んできて、それを理解できる知性を持ってた。彼が書いたもの全てが、その密度において夢のようや。
だから、本の中の各文や段落が、その密度において夢のようなんや。だから、本の中の各文や段落が、イメージ豊かな方法で喚起力があるんや。それもまた、文学的な目的を持つ文章を、単なる技術的な文章から区別するもんやと言えるかもしれんな。文学的な文章には、このイメージ豊かで夢のような参照空間があるんや。複雑なイメージを意味のあるものに変えるには時間がかかるし、書いたものが深いイメージを喚起するなら、それは言葉だけでは捉えられない深さを持つことになるんや。
ニーチェは非常に良い例やし、ドストエフスキーも良い例や。ミルチャ・エリアーデもそうやな。彼らにはそういう特質があるんや。そういう風に考えるのは良い方法やと思うわ。知性の技術的分析の観点から見ても面白いな。『ユーザー・イリュージョン』っていう本があって、ワイが今まで読んだ中で最高の意識に関する本やったんやけど、それがワイらのコミュニケーションの仕方と、ワイらがどうやってお互いにコミュニケーションを取るかを説明してるんや。
それはこんな風に理解できるんや。コミュニケーションをする時、ターゲットとする聴衆の認識や行動の仕方を変えようとしてるんやと想像してみてな。それは具体的な問題やけど、ワイらは言葉を使ってるんや。言葉は明らかに行動そのものとは同じやないけど、言葉が喚起するイメージの雲に囲まれてると想像できるやろ。そのイメージは行動に変換できるんや。最高の文章は、知覚と行動に深く影響を与えるイメージを喚起するような方法で言葉を使うんや。そやから、ワイの行動や振る舞いの仕方を、一連のイメージに変換するんや。ワイの夢がそれをしてくれるんやけどな。
それからそれを言葉に圧縮して、あんたに言葉を投げかける。あんたはそれを分解して、イメージに戻して、それから行動に変換する。意味のある会話ではそういうことが起こるんや。これは、ワイらが言語的にコミュニケーションを取る方法を理解するのに非常に良い方法やと思うわ。言葉が視覚的な複雑さを完全に引き出して、それが行動に変換できるなら、それが知覚の変化をもたらすんや。知覚の変化も関係あるし、これは理解するのに重要なことやと思うわ。古典的な経験主義者は、知覚は価値中立的な企てやという前提を立てるけど、それは間違った前提なんや。
彼らは知覚を強力なものやと考えてるから、知覚は価値中立的な企てやと仮定してるんやけど、知覚は受動的やないんや。行動なしの知覚なんてあらへんのや。これを理解するのは難しいかもしれんけど、何かを見てる時でも、目は前後に動いてるんや。もし目が0.1秒でも動きを止めたら、見えなくなってまうんや。だから、目はじっとしてるように見えても、実は常に動いてるんや。それに、目には無意識の動きもあるし、意識的な動きもあるんや。目でやってることは、盲目の人が物の輪郭を触って確かめるのと似てるんや。サンプリングしてるんやけど、目の前の空間のほんの一部しかサンプリングしてへんのや。どの部分をサンプリングするかは、あんたの目的や目標によるんや。だから、価値が飽和してるんや。
つまり、あんたの知覚は全て行動に基づいてるんや。だから、コミュニケーションをする時に、人々の行動を変えるだけやなくて、彼らが知覚する戦略も変えてるんや。それがコミュニケーションをする時にやってることなんや。世界が彼らに対して自らを明らかにする方法を変えてるんや。これが、特に深い思想家を読むことが非常に深い経験になる理由やと思うわ。あんたの知覚を思考の公理と考えることもできるんや。それは知覚を考える良い方法やと思うわ。
知覚は、もはや概念化するんじゃなくて見えるくらいコンクリートに固まった思考みたいなもんや。本当に深い思想家は、あんたが世界を知覚する方法を変えるんや。それは、あんたがそれについてどう考えるかとか、どう感じるかっていうレベルよりもっと深いところにあるんや。深い思想家だけやなく、強力なアイデアを提示する思想家についてはどうや?例えば、マルクスのユートピア的なアイデアとか、ヒトラーのユートピア的なアイデア、ディストピア的なアイデアとも言えるかもしれんけど、そういうアイデアは強力で、あんたの知覚全体を価値観で飽和させることができるんや。
そういうアイデアは、あんたを特定の行動の集合にだけ焦点を当てさせるし、特定の感情の集合にも焦点を当てさせるんや。それは強烈で直接的で、それらのアイデアは非常に強力やから、知覚を完全に変えてまうんや。言葉がそういう生命力を与えるんや。それは一種の憑依みたいなもんやな。それを理解するには二つのことを知る必要があるんや。まず、ワイらが示唆したり暗示したように、知覚は行動に基づいてるけど、行動は目標に基づいてるんや。あんたは目標に向かって行動するんや。そして、ワイが説明したようなプロパガンダ的な思想家たちは、可能な限りすべての目標を一貫した単一のものに統一しようとするんや。それには利点があるんや。例えば、単純さの利点がある。これは大きな利点やな。それに、動機付けの利点もあるんや。
人々に全ての行動を統合する単純な方法を提供すれば、彼らの不安を減らし、動機付けを高めることができるんや。提示する統一的なアイデアが有効なら、それは良いことかもしれん。でも、それが可能な限り最悪のアイデアやったらどうや?無効な統一的なアイデアを提示したら、それは可能な限り最悪のアイデアになるかもしれんし、可能な限り最良のアイデアにもならへんやろ。ほな、有効な統一的なアイデアと無効な統一的なアイデアをどう区別するんや?ニーチェはそれにめっちゃ興味があったんやけど, ワイはそれを完全に正しく理解したとは思えへんな。でも、ポストモダニストたち、特にネオマルクス主義的な傾向を持つ多くの人たちは、根本的な統一的アイデアは力やという前提を立ててる。全てが強制と力に関するものやと。それが唯一の真の統一的アイデアで、人類の唯一の真のエトスやと。
ワイはそれより悪いアイデアがあるかどうか分からんわ。もちろん、同じくらい危険な可能性のあるアイデアはあるやろ。虚無主義的なアイデアはかなり危険やな。ただ、それは統一的なアイデアというよりは、むしろ分解的な概念やけどな。快楽主義的なアイデア、つまり快楽のために生きるっていうアイデアも非常に危険や。でも、純粋な病理を求めるなら、フーコーの考え方、そしてマルクスの考え方も同じやけど、力が全てを支配してるっていう考え方ほど適切じゃないアイデアはないと思うわ。そのアイデアは恐ろしい統一的アイデアやってだけやなく、あんた自身の力の使用を完全に正当化してまうんや。ワイが言うてるのは、ニーチェが語る力のことやないで。彼の力への意志は、人間存在を自己保護と安全性の機構としてやなく、意志の表現として捉えるという彼の主張やったんや。彼は人間の生命力を、自分自身を守るんやなくて、存在と生成において自分自身を使い果たすものとして考えてたんや。それは意味に向かってさえ上向きに動機づけられた推進力みたいなもんや。
彼はそれを力への意志と呼んだんやけど、それにはいくつかの不幸な結果があったな。少なくともそう訳されてるけど。でも、彼が意味してたのは、フーコーやマルクスみたいな人たちが執着してた力の動機やないんや。だから、他者を破壊しようとする力やないんや。人間存在の力強い繁栄、人間存在の創造的な力や。そうや、そうや、あんたはそれを想像できるし、そうすべきやな。あんたは能力と才能を作り出せるんや。ワイとあんたがプロジェクトに取り組むとするやろ。ワイらは達成したい野心に関連してプロジェクトを組織できるし、あんたがそのプロジェクトに自発的に取り組むように合意を組織できるんや。
つまり、ワイらは実際に、自発的な遊びに近いものへの動機によって、認識と行動において団結することになるんや。もちろん、あんたはそれにイエスと言えるけど…でも、ワイが国民の時間、感情、戦略の支配権を握ってる別の状況があったとしたら、それは目標に向かっての自発的、共同的な合意のパターンの動きの戦略と関連付けられるものとは全然違うもんになるんや。これを理解するのはめっちゃ重要やで。なぜなら、これは力と強制に基づく統一力と、西洋社会、自由な西洋社会を統治するエトスにもっと適合した統一力との質的な違いを理解し始めるのに役立つからや。
そこには本当に質的な違いがあるんや。それは何か道徳的に相対主義的な幻想やないんや。そやから、ニーチェの微妙なところを見てみよう。彼が最初に『ツァラトゥストラはかく語りき』で紹介した超人っていうアイデアは、素晴らしいアイデアやと思う人もおるんやけど、それも誤解されやすいんや。なぜなら、それはめっちゃ力に関するものに聞こえるからな。そうやな?例えば、20世紀にはそれが誤って解釈されて、ヒトラーによって劣等な非アーリア人種の絶滅を主張するために利用されてもうたんや。せやな、そして優秀なアーリア人の支配をな。せやな、それはニーチェの作品が彼の死後、妹によって誤って解釈されたこととも関係あるんやけど、間違いなくそうや。でもワイは、そのニーチェ的な概念化には根本的な欠陥があると思うんや。
ニーチェは有名に神の死を宣言したけど、それを非常に深刻な警告を伴って行ったんや。ニーチェが言うたんは、人々はそれを勝利宣言のように考えがちやけど、ニーチェは実際にこんなこと言うてんねん:「ワイらが心理的にも社会的にも自分たちを組織してきた統一的なエトスが今や致命的に弱体化されてもうた…まあ、合理主義的な傾向によってな。経験主義的な傾向によってな。様々な理由があるんやけど、主にそれは啓蒙主義的な見方と、言うたら古典的な宗教的見方との間の対立やったんや。そしてそれには深刻な結果があるやろうってな。」人間の精神や人間社会には、何か統一に近いものに向かう傾向があるんや。なぜなら、不統一のコストが高いからな。目標の断片化は、あんたの注意を引く多くのものがあるから、前に進む動機が弱くなるってことやし、不安も生むんや。実際、不安は目標の対立を示すシグナルなんや。
だから、価値体系が統一に向かう傾向は避けられへんのや。今、それらを統一してるものを殺してまったら、つまり神の死やけど、それらは断片化して混乱や不安、絶望を生むか、社会の不統一を生むか、あるいは何か別のものが深淵から立ち上がってその統一力を構成するんや。ニーチェは特に、その現れの一つが共産主義になるやろうって言うてたんや。彼は『力への意志』の中で、それが20世紀に何千万もの人を殺すやろうって言うてたんや。彼は50年前にそれが来るのを見てたんや。ドストエフスキーも『悪霊』っていう本の中で同じことをしてたんや。これが、無神論者が対処せなあかん問題なんや。これは本当に難しい問題や。なぜなら、ワイらの価値観が世界の価値観と同じやないっていうアイデアに異議を唱えることもできるし
世界の価値観と同じやないっていうアイデアに異議を唱えることもできるけど、価値体系は統一に向かう傾向があるし、社会もそうや。そうせんと、ワイらはバラバラになってまうからな。でも、ワイが言うたように、そのバラバラさのコストは目標の混乱や不安、絶望なんや。だからそれは本当のコストなんや。あんたは統一の概念を完全に捨てることもできるし、ポストモダニストたちはある程度そうしたんや。でも、彼らは手品みたいなことをして、それを力で置き換えたんや。ニーチェもある程度それに責任があるんや。なぜなら、ニーチェは超人の概念で、人間は自分自身の価値観を作り出さなあかんって言うたからや。なぜなら、上から降りてきた価値構造は今や脇に追いやられてもうたからな。でも、それには大きな問題がある。多くの大きな問題がな。
精神分析学者たちが、ニーチェの後に初めてこれを本当に理解したんや。なぜなら、ワイらがもう超越的なものとの関係を持たへんとして、自分自身に向き合わなあかんとするやろ。オッケー、今ワイらが自分自身の中で明確な統一体やったら、その発見のために自分自身に向き合えるかもしれん。でも、ワイらが内部で断片化された複数性やったら、自分自身に向き合う時、断片化された複数性に向き合うことになるんや。まあ、それがフロイトの観察やったんや。あんたが自分の家の主人やないのに、どうやって自分自身の価値観を作れるんや?あんたは競合する動機の戦いみたいなもんやし、あるいは強制と力への意志に支配されてる人かもしれんし。
だから、なぜあんたが自分自身を価値観の源として頼れると思うんや?なぜあんたが十分賢くて、一生の間にそれらの価値観が何であるべきか、あるいは何になるべきかを見つけるために自分自身と相談できると思うんや?ワイは、あんたの人生の中で一つの関係、例えば個人的な関係を組織するのは難しいって知ってるで。一つの関係をな。まして、ゼロから心理的にも社会的にも安定し、長期にわたって続く倫理観を構築できると想像するのは、なおさら難しいんや。もちろん、マルクスみたいな人たち、つまり人間の動機を単一の軸に還元する人たち、彼らにはそれができるっていう知的な傲慢さがあったんや。ポストモダニストたちもその良い例やな。オッケー、でもワイらが宗教、共産主義、ナチズムをテーブルの上に並べると、それらは全て統一的なエトスや、統一的なアイデアなんやけど、同時にめちゃくちゃ分裂的なアイデアでもあるんや。
それらは統一もするし分裂もさせるんや。宗教も人々を分裂させてきたな。なぜなら、異なる人々が神と格闘する中で異なる結論に至り、そしてその結論を、おそらく権力を持つ人々がその結論を使って戦争を始めたり、憎しみを生んだり、分裂を引き起こしたりしてきたからや。福音書の中の重要なサブテーマの一つは、パリサイ人のサブテーマなんや。そやから、福音書の中でキリストの根本的な敵は、最も重要な敵はパリサイ人と律法学者と法律家たちなんや。
それはどういう意味なんや?パリサイ人は宗教的な偽善者で、律法学者は自分の知性を崇拝する学者で、法律家は法律を武器として使う法律家たちや。だから彼らは救い主の敵なんや。それが福音書の物語のサブプロットなんや。そしてそれは実際に何かを意味してるんや。パリサイ的な問題は、全ての人の中で最高の人たちが、最悪の行為者によって最悪の方法で使われる可能性のある全てのアイデアの中で最高のものを使うってことや。そしてこれは実存的なジレンマかもしれへんな。最も邪悪な人々が最高の可能なアイデアを最悪の可能な目的のために使うってことや。そしてそこからどうやって、言うたら、本物の宗教的な人々を、宗教的な企てを自分たちの策略のためだけに使う人々から区別するかっていう難問が生まれるんや。
ワイらはこれがオンラインで起こってるのを見てるんや。あんたも気づいてるはずやけど、特に右翼側で、右翼の精神病的なトロール側で起こってるのを見てるはずや。それはしばしば「キリストは王なり」みたいな決まり文句の存在によって特徴づけられるんや。これは一定の宗教的な意味を持つけど、この新興の右翼の病理の領域では全く異なる意味を持つんや。右翼っていう政治的な次元は分析の正しい次元やないんやけど、確かに最高の可能なアイデアが
最悪の可能な目的のために使われる可能性があるってことは間違いないんや。そしてそれはまた別の亡霊を呼び起こすんや。つまり、本当に有益な統一的なアイデアを、病理的なものから区別する信頼できて有効な方法はあるんやろうか?ってなことや。それも、ワイがこれらの講義で、そして今度の新しい本でも詳しく説明しようとしたことの一つなんや。つまり、最も根本的なレベルで、良い行為者と悪い行為者をどう見分けるか、そして良いアイデアと悪いアイデアをどう見分けるかってことや。あんたが真理について講義する時、彼らも真理と格闘せなあかんのや。そやから、共産主義が悪いアイデアなのか、それとも悪い行為者によって実行された良いアイデアなのか、どうやって知るんや?
そうや、そうや、それは宗教的な問題のより微妙なバリエーションやな。そしてそれは現代の共産主義者たちがいつも言うてることなんや。「本当の共産主義は一度も試されたことがない」ってな。そしてあんたは、多分ある程度の正当性を持って、本当のキリスト教も一度も試されたことがないって言えるかもしれんな。なぜならワイらはいつも真理の標準に届かへんからや。そやから、ワイの共産主義者への反論は次のようなもんや:それが実施されるたびに、どこで実施されても、それを実施した人々の文化や背景に関係なく、常に同じ破滅的な結果をもたらしてきたんや。ワイは、あんたがそれの例をどれだけ必要とするんか分からへんけど、ワイはその事例は基本的に解決されたと思うわ。それに対する一般的な反論は、「もしワイが共産主義事業の責任者やったら、ユートピアが実現してたやろう」みたいなもんや。でもそれも危険な思い込みの一形態やな。部分的には、何千年にもわたって西洋の正典の中で発展してきた犠牲の概念の中で、ある程度その問題は解決されてるんや。例えば、福音書の受難物語に具現化されてる一つの示唆は、アイデアの正当な保持者は、そのアイデアの結果に対する責任を自分自身に引き受けるってことや。
これが、例えばなぜ福音書の物語の中でキリストが神への究極の犠牲として見られるかの理由の一つなんや。ほな、究極の犠牲って何やろ?それに対する答えにはいくつかのバリエーションがあるんや。究極の犠牲の一形態は子供の犠牲、子供の献げ物や。もう一つは自己の献げ物や。そしてキリストの物語はこの両方を一緒にしてるんや。なぜなら彼は神に捧げられた神の子やからな。だからこれは、究極の犠牲の間の緊張関係の原型的な解決なんや。究極やって言うのは、一度親になったら、ほとんどの親は自分の子供よりも自分自身を犠牲にすることを選ぶからや。だからあんたは自分自身よりも価値のあるものを持つことになるんや。でも自己の犠牲もまた非常に高い価値を持つんや。そして非常に高い価値を持つんや。そして非常に高い価値を持つんや。そして非常に高い順序のレベルの犠牲なんや。
キリストは、最高の価値に全てを捧げるという決断に基づいた存在のパターンの原型なんや。そうやろ?その自己犠牲のパターンや。そしてワイは、それが有効である理由の一部は、そのような行動を取る人が自分自身でその代価を払うからやと思うんや。それは外部化されへんのや。彼らは他の誰かを変えようとしてるんやなくて、せいぜい例によって変えようとしてるだけなんや。それはあんたの問題やな。ソルジェニーツィンもそれを指摘してたな。彼が善対悪のアイデアと格闘してた時にな。そしてあんたはこれをもっと洗練された文学の中で見るんや。知ってるやろ、めっちゃ洗練されてない文学やドラマでは、善人と悪人がおって、善人は全て善で悪人は全て悪やけど、もっと洗練された文学では善と悪は抽象化されてるんや。
あんたはそれらを精霊として考えることができるし、それからそれらの精霊が複雑なドラマの全ての登場人物を多かれ少なかれ憑依するんや。そしてその戦いは社会的にも内的にも戦われるんや。西洋の高次の宗教的概念化では、言うたらキリスト教の物語で頂点に達するんやけど、善と悪の戦いは基本的に内的なドラマとして展開されるっていう考え方があるんや。せやから、宗教的なエトスにとっては、善と悪の戦いは各個人の心の中で戦われるんや。
そうや、それはあんた自身の中で悪を抑制するっていう道徳的な義務なんや。まあ、それ以上のものもあるんやけどな。なぜなら、もしあんたがそうすれば、社会の世界での悪に対する最も効果的な戦士になれるっていう主張もあるからな。あんたの中で起こる戦いから始めるんや。言うたら魂が善と悪の力の間の戦場になるんや。そこにもアイデアがあるんや。もし善と悪の間に戦いがあるなら、その戦いが成功裏に行われれば、それは社会の世界で実際の紛争として演じられる必要はないんや。
あんたは内部で紛争を修正できるんや。それがユングが運命と呼んだものとして演じられる必要はないんや。ほな、ニーチェがキリスト教を奴隷道徳と呼んで、そういう形で宗教を批判したことについて、あんたはどう思う?奴隷道徳と主人道徳の対比をして、そこにウンブラゲを入れたんやけど、それについてはどうや?見てみ、ワイは覚醒現象がニーチェが批判した奴隷道徳の現れやと思うわ。そしてキリスト教にはそのような知覚や概念のモードを支持するように操作できる要素があるんや。でも彼はキリスト教に対する本質的な批判において間違ってたと思うわ。
ニーチェに関しては複雑やな。なぜならニーチェは福音書の物語を直接批判することはなかったからや。彼が基本的に批判したのは、制度化された宗教の病理みたいなもんや。そして、ワイが言うにはとりわけ、言うたらカジュアルに優しすぎるプロテスタントの形態やな。これは大雑把な描写で、おそらく多少不公平かもしれんけど、主流のプロテスタント運動と覚醒モブとの連携を考えると、それはばかげた批判ではないと思うわ。良いことと無害なことが同じやとか、良いことと共感的なことが同じやっていう考え方にキリスト教が退化したみたいなもんやな。それは単に真実やないし、あまりにも単純化されすぎてるんや。そしてワイは、人間が自分自身の価値観を構築すべきやっていうニーチェの前提も極端に間違ってると思うわ。ワイはそ
の前提に巨大な誤りがあると思うんや。そしてそれが超人のアイデアなんや。偉大な個人、ワイらの中で最高の人たちが、自分たちの価値観を作り出すべきやっていうな。
まあ、ワイが彼がそれについて間違ってると思う理由は、エデンの園で神がアダムとイブに指示を与える時、基本的に彼らに囲まれた庭園の中で何でもしたいことをしていいって言うてるからや。それが人間環境を構成する秩序と自然のバランスみたいなもんなんや。人間には神によって保証された自由があって、庭園の中で何でもしたいことができるんや。ただし、最も根本的なルールをいじくり回すことは除いてな。神は人々にこう言うてるんや:「善悪の知識の木の実を食べてはいけない」これは基本的に、暗黙の道徳的秩序があって、あんたはそれに従わなあかんってことを意味してるんや。
あんたの自由はその基礎で止まるんや。そしてあんたはそれについて、エンジニアとしてのあんたのアイデアにも興味があるんやけど、存在そのものに暗黙のエトスがあって、あんたのエトスはそれを反映せなあかんってことやと考えることができるんや。そしてそれはあんたの制御下にはないんや。あんたは基礎をごまかすことはできへんのや。なぜなら、あんたの基本的な信念は、実際の現実の構造と調和して、音楽的な調和のようになってなあかんからや。ワイはあんたにその例を挙げられるで。ワイらの目標は、ワイらが適切に行動してる限り、ワイら二人がお互いを表現できるような興味深い会話をして、お互いに学び成長できるようにすることや。そうすれば、聞いてる全ての人とそれを共有できるんや。
そしてもしワイらの目標が真実で上向きなら、それがワイらがやってることになるんや。それはつまり、ワイらはある種の相互作用のパターンに自分たちを合わせなあかんってことを意味してるんや。そしてそれはワイらにとって感情的にマークされてるんや。あんたもワイもこれを知ってる。もしワイらがこれを正しくやってるなら、ワイらはこの会話に興味を持つはずや。ワイらはそれを見てへんはずや。ワイらは自分たちが何を目指してるかについて考えてへんはずや。ワイらはただコミュニケーションを取るだけや。さて、その宗教的な解釈は、ワイらが対話の中で贖いのロゴスを顕在化させてるようなもんやって言えるかもしれんな。そしてそれは共有できるもんなんや。それをするために、ワイらはそのパターンに合わせなあかんのや。
ワイはあんたを恣意的な方法で演じることはできへんのや。ワイが精神病的な操作者やったらそうできるかもしれんけど、それを最適にやるには、ワイらのコミュニケーションに特定のアプリオリな目標みたいなものを押し付けて、あんたをそれに操作することはせえへんのや。だからワイのエトスに対する制約は、実際の世界の構造を反映してるんや。そしてワイはそれを – これが共産主義の前提なんや。「全てを燃やし尽くして、ゼロから始めよう。ワイらはこれらの行動を持ってる。ワイらはそれをやろうとしてる。ワイらはそれをやろうとしてる。ワイらは前提を公理化して、それらを実行に移して、人々を社会化して今や共産主義者のように考え、生きるようにしよう。人間は無限に可塑的で、ワイらは合理的な前提のセットを使って、彼らがどんな存在になるべきかを決定できる。」トランスヒューマニストたちも同じことをしてるんや。そうやない、そこには
あんたが調和しなあかんような存在のパターンがあるんや。そしてワイはそれが存在のパターンやと思うわ。もしあんたがそれと調和すれば、それがあんたに希望を与えてくれるんや。それがあんたを不安から守ってくれるし、あんたの周りの環境や他の人々との調和の感覚を与えてくれるんや。そしてそのどれも恣意的やないんやけど、ワイらはこの会話にかなり固定的な公理を持って来てるんやないか?多分ワイらはそれに気づいてへんかもしれんけど、マルクス主義者が世界とそれがどうあるべきかについてかなり固定的な公理を持って来たのと同じように、ワイらもそうやないか?
そうや、ワイらは確かに基本的な公理の階層を持って会話に臨んでるんや。そしてワイは、あんたが思想家として洗練されればされるほど、あんたがプレイしようとする深さのレベルが深くなるって言うやろな。まず、あんたには異なる深さの前提があるって想像してみてな。より根本的な公理に基づいてるものがより多くあって、そしてそれらの周りにプレイの空間があるんや。
そしてそのプレイの空間は、プレイヤーの洗練度によって変わってくるんや。明らかにな。でも、より深い会話に参加できる人たちは、より根本的なことについてより多くのプレイをしながら話すんや。さて、ワイらはある程度の構造を持って会話に臨まなあかんのや。そうせんと、お互いを理解したりコミュニケーションを取ったりできへんからな。多くのことが既に前提とされてるか、当然のこととして受け入れられてなあかんのや。宗教が提供する公理の階層はどれくらい固定的なんや?ワイが理解しようとしてるのは、その固定性なんや。プレイは全く固定的やないで。いや、いや、いや、いや。それには理由があるんや。いくつかの制約があるんや。ワイがその質問の答えを見つけるのに40年くらいかかったんや。ワイは真面目な話をしてるんやで。
だからそれは適当な答えやなかったんや。プレイはある意味でかなり固定的なんや。例えば、あんたとワイがバスケットボールやチェスをしに行くとするやろ。そこにはルールがあって、そのルールを破ることはできへんのや。そうしたらもうゲームやないからな。でもそのルールの中には、ほんまに動的なところもあるんや。チェスの場合、それはほぼ無限やな。ワイが思うに、チェス盤上の潜在的なゲームのパターンの数は、観測可能な宇宙の中の素粒子の数よりも多いんちゃうかな。それはめちゃくちゃ広大な空間なんや。だから、その中に自由がないってわけやないんや。でも同時に、これは奇妙なパラドックスみたいなもんやないか?
音楽もそうやな。確かにルールはあるし、チェス盤にバスケットボールを投げ込んでチェスをプレイし続けることはできへんけど、不思議なことに、ルールを守ればむしろ自由の領域が増えるんや。減るんやなくてな。ワイは遊び心のある会話にも同じことが言えると思うんや。ワイらはある種のルールに従ってプレイしてるんやけど、その多くは暗黙のもんや。でもそれは制約の逆を意味するかもしれへんのや。なぜなら、例えばワイが言及した出エジプト記のセミナーや福音書のセミナーでは、セミナーの参加者全員が公平にプレイしたからや。誰も力を使わんかったし、自分が正しいってことを証明しようとせんかった。彼らは自分の意見を述べたけど、「これはこういう見方やけど、評価してみてくれ」みたいな感じやったんや。彼らはまた、「ワイはこの物語についてこういう結論に達したんやけど、ワイは
それについて主張するつもりやけど、あんたがどう思うか聞きたいんや。なぜなら、あんたはそれを変えたり、拡張したり、欠陥を見つけたりできるかもしれんからな」っていう感じでやってたんや。それが、流れのある会話や、魅力的な会話なんや。そして他の人も聞きたくなるような会話なんや。そして、ワイはそれも、ワイらが今や神経科学的な基礎からも結論づけられることやと思うんやけど、その意味に没頭してる感覚は、新しい意味の出現だけでなく、あんたとあんたの環境との調和のマーカーでもあるんや。でも、それは発達的に豊かな方法で、あんたを上向きに動かすような形でその調和が現れることのマーカーでもあるんや。あんたをより効果的な状態にするんや。
それが実際の技術的な答えなんやけど、それはあんたをあんた以上のものにするんや。そしてそこには方向性があるんや。ほな、ワイはある意味で、共産主義について話したいんや。なぜなら、それは明らかに人類にとって破壊的なアイデアのセットやってことが示されてきたからや。でも、ワイはエンジニアリングの観点から、共産主義と宗教の特徴を理解したいんや。宗教的思想がより良い人間、より良い社会につながるのに対して、共産主義的マルクス主義的思想はそうでないってことを、どうやって見分けられるんやろ?そうやな、なぜならそこには曖昧さがあるからや。共産主義やマルクス主義にもプレイの余地があるんや。なぜなら彼らはある種のユートピア的な感覚を持ってて、みんなが向かってる方向は分からんけど、革命が必要かもしれんし、革命が終わった後に
図り出すんやっていう感じやからな。人間は基本的に善良で、抑圧者を取り除けば物事を解決できるっていう根本的な仮定があるんや。そうやな、これらのアイデアは全て、実践に移すまでは、かなり説得力があるかもしれんな。19世紀にはそうやったんや。19世紀はめっちゃ強力なアイデアを生み出したんやけど、それは面白いことやな。マルクスとニーチェ、ああ、ファシズムもそうやな。だからワイが19世紀にいて、特に自分のことをクソだと感じてたら、これらのアイデアの多くは、虚無主義の穴を埋める強力な方法として魅力的に感じたかもしれんな。
そうやな、絶対にな。そしてそれらのいくつかは、実際に適切な適用範囲を持ってるかもしれんな。共産主義、社会主義/共産主義の根本的な公理のいくつかは、十分に小さな社会集団では実際に機能するかもしれんのや。たぶん部族みたいなもんやな。ワイも
これが正しいかどうか分からんけど、ワイは、ワイらが話してる急進的左翼のアイデアのいくつかがこんなに広く魅力的なのは、まさにそれらが家族の中で、あるいは人々が元々進化してきた可能性のある小さな部族集団の中で機能するからやという疑いを持ってるんや。そして一度ワイらが文明化して、お互いを知らない人々の間でさえ団結した社会を生み出すと、それは部分的にはエンジニアリング的な反応やけど、でもワイは共産主義の問題にもっと深いアプローチがあると思うんや。ワイは共産主義の公理の根本的な問題の一部は、複雑な社会的相互作用の世界を中央計画当局が扱えるほど十分に単純化できるという考えにあると思うんや。そしてワイは、共産主義システムに対する自由交換の反論を考える最良の方法は、
その前提に対する自由交換の反論を考えることやと思うんや。つまり、「いや、大規模な文明における人間の相互作用の総和は非常に膨大やから、適切な前進の方法を計算するには分散型の認知ネットワークが必要なんや」っていうことや。だからあんたがするのは、各行為者に個人的選択の領域を与えて、彼らが自分自身の前進を最大化できるようにして、集合的な方向性がそこから現れるのを許すんや。上から押し付けるんやなくてな。ワイはそれが計算的に不可能やと思うんや。そやから、これが共産主義のソリューションが機能しない理由のエンジニアリング的な理由の一例かもしれんな。ワイはソルジェニーツィンで読んだんやけど、ソビエトの中央当局は一日に200もの価格決定をせなあかんことがよくあったらしいわ。もしあんたがビジネスを始めたり、製品を作ったりして、価格設定の問題と格闘したことがあるなら、それがどれほど手に負えないかが分かるやろ。つまり、価値をどうやって計算するんや?まあ、これが人生の中心的な実存的問題なんや:価値をどうやって計算するんや?中央当局が座ってそれを管理できるようなもんやないんや。
見てみ、価格決定には多くの入力があるんや。そしてそれに対する自由市場の答えは、「まあ、価格が正しければ、人々はそれを買うやろう」っていうもんや。でも全てが生き残るわけやないんや。これはアイデアが失敗する様子を描写する魅力的な方法やな。だから、共産主義はおそらく失敗するんや。なぜなら、人々が地球が平らやと信じるのと同じように、外を見たら平らに見えるけど、地平線の向こうは見えへんからな。同じように共産主義も、ワイの家族やワイの愛する人たちの中では素晴らしいアイデアに思えるけど、それは規模が大きくならへんし、繰り返しが効かへんのや。そうやな、それも規模の一形態やな。まあ、どんな形であれ、それは崩壊するんや。そしてあんたは宗教的思想が、おそらく規模が大きくなる可能性のあるものやって言うてるんやな。
ワイは宗教的思想は、実際に規模が大きくなり、繰り返しが効いたアイデアの記録やと言うやろな。宗教的思想は繰り返しが効くんやろか?つまり、宗教的伝統には根本的に保守的な側面があるからな。これがワイがミルチャ・エリアーデを好きな理由の一つなんや。ワイが前に言及した人やけど。エリアーデがしたこと、そして非常に効果的にしたことは、ある意味でエリアーデのアイデアを大衆化した人々、例えばジョセフ・キャンベルや、カール・ユングのアイデアも同様やけど、彼らが本当にしたのは、可能な限り最大の時間範囲にわたって規模が大きくなり、繰り返しが効いたアイデアの分析に専念することやったんや。そして彼らは多くのパターンを見つけたんや。
例えば英雄神話は、そういうパターンの一つや。そしてワイは、それが人間の神経生理学や神経心理学に反映されてるっていう証拠は反論の余地がないと思うんや。だからこれらの基本的な物語は長続きするんや。それらは複数の宗教的伝統に共通してるし、統一性があるし、心理的に機能するし、それらは単に機能するんやなくて、単に機能するんやなくて、単に機能するんやなくて、存在するんや。でもそれらは基礎となる神経生理学的構造も反映してるんや。ワイはその例を挙げられるで。英雄神話は本質的に探求の神話なんや。そして探求の神話は、本質的に探索と拡大の物語、適応の物語なんや。そうやろ?ホビットのビルボを見てみ。彼は一種の普通の人で、非常に制約された秩序ある安全な世界に住んでるんやけど、そこに探求の呼びかけが来るんや。そして彼は外に出て行って、自分のパーソナリティを拡大し、知恵を発展させるんや。これは人間の神経生理学や神経心理学的構造に反映されてるんや。それも認知よりもずっと低いレベルでな。
哺乳類の脳の最も基本的な要素の一つ、さらに下等な動物の形態でさえ、視床下部なんや。これは一次的な動機付けの根源みたいなもんや。性欲を支配し、呼吸を調整し、空腹を調整し、喉の渇きを調整し、体温を調整するんや。本当に低レベルの生物学的必要性を調整してるんや。あんたがお腹が空いたときは視床下部が働いてるんや。あんたが空腹感を感じるのは視床下部や。あんたが防御的に攻撃的な状態で活性化されるのも視床下部や。視床下部の半分はドーパミン作動性経路の起源なんや。そしてそれらは探索を包含してるんや。だからあんたは人間の動機付けの現実を、公理的な動機付け状態によって支配される領域として考えることができるんや。愛、セックス、防御的攻撃、空腹感、そして探索によって支配されるもう一つの領域としてな。
そしてルールは次のようなもんになるやろ:基本的な動機付け状態が満たされたら、探索せえ。まあ、ワイが言うたように、これは認知的なもんやないんや。これは非常に深い脳の構造なんや。極めて古代からあるもんや。そして、探索の物語は次のようなもんや:未知の世界に出て行って、リスクを取るんや。なぜなら、あんたが発見する情報と発展するスキルは、基本的な動機付けの衝動を満たすのにも価値があるからや。それから、あんたはそれを反復的な方法で行って、時間を超えて持続させることを学びたいんや。そしてあんたは他の人々とも団結するような方法でそれをしたいんや。そこにはパターンがあるんや。ワイはそれがワイらが深い宗教的物語の中に封じ込めようとしてるパターンやと思うんや。そしてワイは、多くの点でワイらはそれを成功裏にやってきたと思うんや。神を信じることは何なんや?それはどう当てはまるんや?神を信じるってどういう意味なんや?
オッケー、ワイが『神と格闘する我ら』っていう本で取り上げてる物語の一つ、ワイが最近になってようやく分析し始めた物語があるんやけど、世界を救うっていう物語や。ワイはそれについて詳しくは話さへんけど、アブラハムの物語について話すで。それはめっちゃクールな物語で、ちなみにあんたの質問、つまり共産主義が何故間違ってるのかっていう質問にも関係があるんや。ドストエフスキーはこれを知ってた。正確にはアブラハムの物語やないけど、同じ理由を『地下室の手記』の中で示してる。ドストエフスキーはそこで非常に鋭い観察をしてるんや。彼は皮肉で虚無主義的で苦々しい、失敗した官僚の声を通して語ってるんやけど、その人物は人間の本質について非常に冷笑的に、でも同時に非常に的確に語ってるんや。彼が指摘してることの一つは、彼が社会主義的なユートピア主義者たちが与えたいと思ってるものを人々に与えたとしても、つまり全ての物質的な
ニーズが満たされて、しかもそれが無期限に続くとしても、ドストエフスキーの主張は、あんたは人間をよく理解してへんってことや。なぜなら、もしあんたが人々をそんなに快適な環境に置いたら、彼らは何か面白いことが起こるようにわざと気が狂ってしまうやろうからや。彼はこれを非常に皮肉っぽく辛辣な方法で言うてるんやけど、彼は何か深いものを指摘してるんや。それは、ワイらは快適さや安全のために作られてへんってことや。ワイらは乳児やないし、満足を求めてへんのや。じゃあ、一体ワイらは何を求めてるんやろ?
アブラハムの物語がそれに答えてるんや。アブラハムは聖書の物語の中で最初の真の個人なんや。だからあんたは彼の物語を、発展する個人の原型的な物語として考えることができるんや。あんたは「まあ、神って何なん?」って言うたけど、アブラハムの物語の中では、神は多くの異なる方法で特徴づけられてるんや。聖書のような古典的な宗教テキストの中では、実際には神の異なる特徴づけの編纂になってて、それらが根底にある統一を反映してるっていう主張があるんや。アブラハムの物語の中では、神は冒険への呼びかけとして特徴づけられてるんや。アブラハムは手元に社会主義的なユートピアを持ってるんや。彼は裕福な家族の出身で、必要なものは全て持ってるんや。そして実際、彼は70代になるまで何もしなかったんや。仮説的に言えば、その時代の人々はもっと長生きしたらしいんやけどな。
でも、アブラハムに声が聞こえてくるんや。そしてその声は彼に非常に具体的なことを言うんや:「あんたの快適な場所を離れなさい。あんたの両親を離れ、あんたのテントを離れ、あんたのコミュニティを離れ、あんたの部族を離れ、あんたの土地を離れなさい。世界に出て行きなさい。」そしてアブラハムは思うんや。「ワイには裸の奴隷の女の子たちがブドウの皮をむいて食べさせてくれてるのに。冒険なんて何の必要があるんや?」そして神は彼に言うんや。これが契約の一部なんや。ちなみにイスラエルの民の神が彼の民と結ぶ契約の一部や。これは非常に具体的で、非常に素晴らしいんや。神は言うんや。「もしあんたが冒険の声に従えば、あんたは自分自身にとって祝福となるやろう。」これは良い取引やな。なぜなら、人々は一般的に自分自身と相容れない状態で生きてるからや。そして神は言うんや。それだけやない。
あんたは自分自身にとって祝福となる方法で、人々の間であんたの評判を高めることになるやろう。しかも正当にな。あんたは本物のことを成し遂げるやろうし、人々はそれを知るやろう。そしてあんたは彼らの尊敬を受けるやろう。これはかなり良い取引やな。なぜなら、社交的な人々は他者から有用性と価値があると見なされたいと思うからや。だからこれは良い取引なんや。そして神は言うんや。それだけやない。あんたは永続的で深い価値のあるものを確立するやろう。だからアブラハムは諸国民の父となるんや。そして最後にこう締めくくるんや。そこにはさらに良い要素がある。あんたはこれら三つのことを、他の全ての人にとって最大限有益な方法で行うやろう。
だからアブラハムの物語の中の神は、こんな主張をしてるんや。まず、あんたが注意を払うべき衝動があるんや。つまり、あんたを快適な場所から呼び出す冒険の精神やな。今、もしあんたがそれに注意を払って、その道を辿るために必要な犠牲を払えば、次のような利益があるやろう:あんたの人生は祝福となり、皆があんたを高く評価し、あんたは永続的な価値のあるものを確立し、そしてあんたはそれを他の全ての人にとって最大限有益な方法で行うやろう。さて、これが生物学的に、あるいはエンジニアリングの観点から何を意味するか考えてみてな。
これは、発達する本能、つまり外に向かって動く子供たちや大人たちを特徴づける本能が、心理的安定性を可能にし、社会的階層の中で上昇することを可能にし、反復可能なものを確立し、そしてそれを他の全ての人々が同じプロセスに参加できるような方法で行うのと同じ本能やってことを意味してるんや。まあ、知ってるやろ、これは良い取引やな。そしてワイには、これが真実でない可能性が分からへんのや。なぜなら、代替仮説は、あんたを自分自身を超えて発展させる精神、言うたら好奇心旺盛な子供の精神が、あんた自身の尊厳に反するものやってことになるからや。それは他の人々の最善の利益に反するものなんやろうか?それはあんたが何か永続的なことをする可能性を高めないものなんやろうか?
それは愚かな理論やな。だから神は冒険への呼びかけで、いくつかの制約があるんやな。真の冒険への呼びかけ、真の冒険へのな。そうや。そしてそれは良い観察やな。なぜならそれは次の質問を引き起こすからや:最も真の冒険を構成するものは何なんや?まあ、少なくともキリスト教の視点から言えば、それは福音書まで十分に描かれてへんのや。なぜならあんたはキリストの受難がアブラハムの最も真の冒険やって言えるからや。これは恐ろしいことやな。なぜなら受難の物語は破滅的な悲劇やからや。もちろん、贖罪の要素もあるんやけどな。でも、そこで示唆されてることの一つは、人生の真の冒険と最大限の責任と重荷を引き受けることの間に違いはないってことなんや。あんたは『キリストの受難』っていう本を聞いたことあるやろ。ワイにはそれが真実でない可能性が分からへんのや。なぜなら、反対仮説は、レックス、あんたの人生で最良のことは全ての挑戦から逃げて隠れることやってことになるからな。幼児のままでいて、安全でいて、決して自分の限界を超えようとせず、リスクを取らないことや。まあ、誰もそれが正しいとは思わへんやろ。
だから基本的に、最も価値のある冒険は、可能な限り最も困難な冒険と高度に相関してる可能性があるんや。最も困難な可能性のある冒険を自発的に引き受けることや。絶対にそうでなきゃいけないってわけやないけど、自発的にっていうのをどう定義するんや?ここに例があるな。キリストが十字架刑の前夜、原則的に彼はそれが来ることを知ってたんやけど、彼はその重荷から解放してくれるように神に頼むんや。それは理解できることやな。ワイは言うてるけど、それは有名な場面で、彼は文字通り血の汗をかいてるんや。なぜなら、あんたも知ってるように、何が来るか分かってるからや。そしてローマ人は十字架刑を、可能な限り最も苦痛に満ちた、屈辱的で、苦痛に満ちた、屈辱的で、嫌悪感を抱かせる死に方になるように設計したんや。
そうやな、だからそれに対して不安を感じる理由は十分にあるんや。そしてあんたは言うかもしれんな。まあ、あんたはそれを自発的に冒険として引き受けることができるんやろうか?そしてその答えはこんな感じや:あんたの死との関係はどんなもんなんや?それはあんたが解決せなあかん問題や。あんたはそれと戦うこともできるし、それについて苦々しい思いを持つこともできる。そしてそれには理由があるんや。特にそれが痛みを伴い、品位を下げるものやったらな。でも代替案は何か…これは宗教的なイメージの中で常に描かれてるもんやけど、言葉で表現するのはめっちゃ難しいんや。それは、いや、あんたはその闘争を歓迎するんや。だからワイはその本を『神と格闘する我ら』って呼んだんや。あんたはその闘争を歓迎するんや。そしてアレックス、ワイには、あんたがそれを何かのように構築せずに人生と折り合いをつける方法が分からへんのや。「困難になるまでは闘争を歓迎する」みたいな感じやな。まあ、そしたら限界はないんや。
そういう意味で、十字架刑はそのシンボルなんや。まあ、それはある意味ではさらに悪いんや。なぜなら十字架刑は可能な限り最悪の死を例示してるからや。でもそれは闘争の唯一の要素やないんや。なぜなら神話的に、古典的にキリストの死の後、彼は地獄を荒らすんや。そしてそれが心理学的に意味することは、ワイが思うに、あんたは人生の全ての実存的な重荷を引き受けて、それを歓迎するだけでなく、反対のあらゆる誘惑にもかかわらず、あんたの上向きの目標を維持せなあかんってことや。でもあんたはまた悪意そのものの根源と向き合わなあかんのや。
だから、それは単なる悲劇やないんや。そしてワイは、悪意のほうが実際にはもっと悪いと思うんや。ワイがそう思う理由は、心的外傷後ストレス障害に関する文献を知ってるからや。そして、言うたら彼らを断片化するような残酷な挑戦に遭遇する多くの人々にとって、人々を断片化するのは純粋な苦しみやないんや。人々を断片化するのは悪意との遭遇なんや。時には自分自身の悪意との遭遇やな。しばしばな。ちなみに、兵士が戦場に出て行って、自分の中に本当に破壊を楽しむ部分があることを発見することがあるんや。そして彼はそれに一人やないんや。そしてその概念化は、彼が自分自身や人類について知っていると思っていたことと全然合わへんのや。
そして自分自身のその暗い部分との接触の後、彼は二度と回復せえへんのや。そういうことが人々に起こるんや。そして世界の悪い行為者に遭遇する人々にも起こるんや。もしあんたが純真な人で、正しい自己愛的なサイコパスがあんたの道を横切ったら、あんたは本当に死ぬような大変なことになるかもしれんのや。なぜならあんたは死ぬかもしれんけど、それだけで問題が終わるわけやないからや。20代の若い男性がこれを聞いてるとしたら、彼らはどうやってドストエフスキーの『地下室の手記』の引力から逃れて、世界に対して目を開いたままでいられるんやろ?彼らはどうやって冒険を選ぶんやろ?まあ、旧約聖書の物語には神の他の特徴づけもあるんや。その質問に本当に関係があると思う特徴づけのパターンの一つは、神を呼びかけと良心として概念化することなんや。
オッケー、それはどういう意味なんや?それは世界の作法の描写であり、あんたの運命があんた自身に告げる作法の描写なんや。ワイはその用語を使ってるんやけど、これはニーチェの、あんたは自分自身の価値観を作り出すっていう考えとは区別できるんや。それは、あんたがそれが間違ってると言える方法の一部はこうや:あんたは自分の興味を自発的にごまかすことはできへんのや。つまり、あんたはいくつかのことを面白いと感じて、それは自然で自律的に見えるし、他のことは面白いと感じへんのや。そしてあんたは本当にそれに興味を持つように自分を強制することはできへんのや。さて、あんたに明らかになる興味の領域は何なんや?
まあ、それは自律的な精神みたいなもんや。あんたの知覚の場の中の特定のものがあんたに対して照らし出されるんや。「ああ、それは面白いな、それは魅力的やな、それは心を掴むな」って思うんや。宗教体験の現象学を研究したルドルフ・オットーは、それをヌミノーズ(神秘的な)と表現したんや。あんたはそれに惹きつけられるから、物事があんたを掴むんや。そしてそれはまた、ある程度不安を引き起こすかもしれんのや。それは同じことや。あんたは本当に自分を強制して、猫が犬に対してするように、猫の毛が逆立つときのように、畏怖の反応を起こすことはできへんのや。そしてあんたの現象学的な場の中には、あんたを前に引っ張り、あんたを強制するものがあるんや。つまり、肯定的な感情と熱意の声みたいなもんや。
物事があんたを世界に引き込むんや。それは愛かもしれへんし、美的な興味かもしれへんし、友情かもしれへんし、社会的地位かもしれへんし、義務や勤勉さかもしれへんのや。あんたの現象の中で起こってるものはたくさんあるんや。あんたの現象の中で起こってるものはたくさんあるんや。あんたの現象の中で起こってるものはたくさんあるんや。人々にとって輝いてる興味の領域はいろいろあるんや。それがポジティブな側面やな。神は呼びかけてるんや。これはアブラハムにとっての冒険の精神に似てるんやけど、神は良心でもあるんや。これも知っておくと役立つことやな。特定のことがあんたを悩ませ、それがあんたの中に根付いて、
あんたの思考を特定の問題に向かわせるんや。あんたが一生追求してきた興味深いことがあるし、ワイが道徳的な強制力として感じた興味深いこともあるんや。だからあんたはこう考えることができるし、ワイはこれを技術的に考える方法やと思うんやけど、何かがあんたを前に引っ張って、あんたが前進して発展するようにするんや。そして別の声、否定的な感情の声があって、「前進してる間はこの狭い道にとどまれ」って言うんや。そしてそれは逸脱をマークするんや。恥や罪悪感や不安、後悔でマークするんや。そしてそれは実際に声を持ってるんや。「それをするな」ってな。まあ、なぜそうなんや?あんたが真っ直ぐな、狭い道から逸れてるからや。あんたが言わへんかった否定的な感情をどうするんや?嫉妬は?本当に暗いものもあって、それがあんたをかなり悪いところに引きずり込む可能性があるんや。嫉妬、恐怖…
そうやな、嫉妬は本当に悪いもんや。それらはカインとアベルの物語におけるカインの罪なんや。なぜならカインは、彼の犠牲が不十分やったから失敗するんや。彼は自分の最善を捧げへんかったから拒絶されるんや。そしてそれが彼を苦々しく、不幸にさせるんや。そして彼は神に不平を言いに行くんや。そして神は彼にこう言うんや:「ワイがあんたに言うたことは二つや。もしあんたの犠牲が適切やったら、あんたは受け入れられてたはずや」これは残酷な返事やな。
神はまた言うんや:「あんたは自分の惨めさを神のせいにすることはできへんし、あんたの失敗のせいにすることもできへん。あんたは失敗から学ぶことができたはずや。あんたが失敗したとき、あんたは嫉妬と恨みの精神を招き入れて、それにあんたを支配させてしまったんや。そしてそれがあんたを惨めにしてるんや。」そしてカインはその返事に苦々しさを感じて、それでアベルを殺すんや。だからあんたは言うかもしれんな。まあ、どうやってその恨みの道から自分を守るんやろ?そして古典的な宗教的実践の一部は、まさにそれをすることを目的としてるんや。嫉妬の対極にあるものは何や?感謝やな。それはあんたが実践できるものなんや。ワイは文字通り実践できるって言うてるんや。ワイは嫉妬が若い人にとって最大の敵の一つやと思うわ。なぜなら基本的にあんたは何もないところから始めるからや。
人生は難しいし、あんたは何も達成してへんし、あんたは常に努力して失敗し続けてるからや。なぜなら、そしてあんたは、同じ問題を抱えてないと思う他の人を見るんや。そうやな、そして彼らは成功するんや。彼らはあんたの隣人かもしれへんし、インターネット上の誰かが少し成功してるかもしれへんし、インターネット上の誰かがかなり成功してるかもしれへんのや。そしてワイは、その種の嫉妬が人を本当に引きずり下ろす可能性があると思うんや。そうやな、その種の嫉妬は本当に人を破壊する可能性があるんや。そうやな、間違いなくな。まあ、感謝の要素はこんな感じやな。そうやな、あんたは何も知らへんし、あんたは底辺にいるけど、まあ、あんたは80歳やないやろ?
アメリカでの富の最良の予測因子の一つは年齢なんや。だからあんたは言うかもしれんな。まあ、年取った金持ちの男と若い貧乏な男、どっちがより良い状況なんやろ?そしてワイは、ほとんどの年取った金持ちの男は、若さと引き換えに自分の富を手放すやろうって言うやろな。だから、どの段階でも誰が有利な立場にいるのか、誰が優位にいるのか、全然明確やないんや。そしてあんたは言うかもしれんな。まあ、ワイは若いからこれら全ての重荷を前にしてるんや。あるいは、ああ神様。あるいはあんたは言うかもしれんな、全てのドラゴンには宝があるんやって。そしてそれは実際に知覚のパターンなんや。知ってるやろ。ワイは人々が挑戦を持ってないって言うてへんのや。彼らは確かに持ってるんや。でも挑戦と機会を区別するのはめっちゃ難しいんや。
そして挑戦を機会として見ることを学ぶこと、それが知恵の始まりなんや。興味深いのは、ワイはどうやって機能するのか分からへんけど、多分あんたは説明できるかもしれへんな。でも誰かに対して嫉妬を感じたとき、もしあんたがただその人を称えるだけなら、感謝やな。でも実際に、自分が持ってるものに感謝するんやなくて、文字通りその人を称えるんや。それはそれを変容させるんや。それは道を照らすんや。ワイはなぜそうなるのか正確には分からへんのや。あんたが嫉妬してる唯一の理由は、あんたが欲しいものを持ってる誰かを見てるからや。オッケー、そんじゃそれについて考えてみよう。まあ、まず第一に、彼らがそれを持ってるっていう事実は、原則的にあんたもそれを手に入れられるってことを意味してるんや。少なくとも誰かがそれを持ってるってことやからな。それはかなり良い取引やな。そしてあんたは言うかもしれんな。まあ、ワイがその人を嫉妬してるっていう事実は、ワイが実際に何かを欲しがってるってことを意味してるんや。そしてあんたは言うかもしれんな、「まあ、ワイはその人を嫉妬してるんや。」そしてあんたは言うかもしれんな、「まあ、ワイはその人を嫉妬してるんや。」そしてあんたは言うかもしれんな、「まあ、ワイはその人を嫉妬してるんや。」そしてあんたはこう言うかもしれんな。「女性にとって魅力的な人を嫉妬してるんや。」そしたら、オッケー、今あんた自身について何か知ったんや。あんたに明らかになってる一つの真の動機は、女性にとって魅力的な人物になりたいってことやって分かったんや。
もちろん、それは男性の間で非常に一般的な憧れやな。特に若い男性の間ではな。さて、それを手に入れられへんって何がそんなに確信させるんや?まあ、ここに答えがあるで:あんた自身への信頼が足りへんのかもしれへん。多分あんた自身への信頼が足りへんし、まあ、ワイは神聖なものって言うやろうけど、そういうものへの信頼も足りへんのかもしれへん。あんたは、みじめなあんたでさえも真鍮の指輪に手が届くくらいの可能性を世界が持ってるって信じてへんのや。そして、知ってるやろ、ワイは実際にこれについて以前の本の一つで話したんや。なぜなら「他人と比べるんやなくて、あんた自身と比べろ」っていう章を書いたからや。まあ、なぜやろ?
まあ、明日のあんたにとって最高の基準は今日のあんたやからな。そしてあんたは、あんたが自分を比較してる特定の軸で他の誰かが持ってるものを持つことはできへんかもしれへんけど、あんたが目指してる方向に関係なく、あんたの現在の状態から少しずつ改善することはできるんや。そしてそれは法則なんや。少しずつの改善の見返りは、線形やなくて指数関数的あるいは幾何級数的なんや。だから、たとえあんたが低いところから始めても、これが神話的に英雄が常に卑しい場所で生まれる理由なんや。世界を救うキリストは、神に見放された砂漠の中の、目立たない時代と場所で、貧しい両親のもと、動物たちと一緒に飼い葉桶の中で生まれるんや。まあ、なぜやろ?まあ、若い人は誰もが自分の不十分さと闘ってるからや。
でもそれは、素晴らしいことが明らかになれへんってことを意味せえへんのや。そして聖書のテキストの主張の一部は、例えばワイらは自分自身を明らかにすることはできへんってことなんや。そして聖書のテキストの主張は、手元の証拠をどう解釈しようと、あんた自身と存在の精神、現実の本質に信頼を持つ勇気を持つことがあんたの義務やってことなんや。そうやろ?「見てみ。ワイはこんなに役立たずや。ワイは何も知らへん。ワイは何も持ってへん。希望はないんや。ワイにはそれをする力がないんや。世界はワイにその可能性を提供できへんやろう。」まあ、あんたはそれについて何を知ってるんや?これがヨブが自分の苦しみの中で理解することなんや。なぜならヨブは、神がサタン自身と賭けをして彼を打ち倒すために、ひどく拷問されるからや。
そしてヨブの激しい苦しみに直面した決断は、「ワイは自分の本質的な善良さへの信頼を失わへんし、たとえ今この瞬間に見せてる顔がどれほどひどいものであっても、存在そのものの本質的な善良さへの信頼を失わへん」ってことなんや。そしてワイはこう思うんや。オッケー、その主張についてあんたはどう思う?まあ、実際に見てみよう。あんたは人生の恣意性に拷問されてるんや。それは恐ろしいことや。今あんたは自分自身への信頼を失って、存在に対して冷笑的になる。そしたらあんたは瞬時に無限に悪い状況に陥るんやないか?そしてあんたは言うかもしれんな。まあ、そうやけど、人々に最も暗い時間でさえ信頼を維持することを求めるのは本当に多くを求めすぎやないか。そうやな、それは人々に全てを求めることかもしれへんな。
でもあんたはまた、これはめっちゃ奇妙な質問やけど、もしあんたが本質的に善良なものによって存在に連れてこられたとしたら、あんたを存在に連れてきたそのものは、あんたが自分の最高の部分を明らかにすることを要求するんやないか?そしてあんたがそれを最も必要とするときこそ、あんたはそれを現れさせるのに必要なことをするほど絶望的になるんやないか?そやから、あんたは理性が暗闇の場所からあんたを連れ出す可能性のあるものであるかのように見せてるんやな。言うたら、理性を通じてその呼びかけを見つけるってな。ワイは、理性が失敗したときに単にリープを取ることも可能やと思うわ。理性によってナビゲートするんやなくて、あんたを怖がらせるものを見つけて、リスクを取り、飛び込んで、空中にいる間に解決策を見つけるんや。
そうやな、まあ、ワイはそれが常に英雄的な冒険の一部やと思うわ。知ってるやろ、ゴルディアスの結び目を切る能力みたいなもんや。でもあんたはエンジニアリングの観点から、オッケー、そのような決断を可能にする公理は何やろって聞くこともできるんや。そしてその答えは次のようなもんやろう:「ワイは、もしワイが善意を持って前進すれば、ワイに起こることは何であれ、それが何であっても、起こり得る最良のことになるやろうって仮定をするつもりや。」そしてワイは、それが実際に真理と同盟を結ぶ方法やと思うんや。そしてワイはまた、真理が冒険やと思うんや。そしてあんたが真理と同盟を結ぶ方法は、もしあんたが真理の中で生きてるなら、あんたに起こることは何であれ、たとえあんたがその瞬間にそれを見ることができなくても、起こり得る最良のことやってことなんや。
なぜなら、そうでなければ、あんたは真理が単なる利益の侍女にすぎないって言うことになるからや。まあ、ワイは何か真実なことを言うつもりで、そしてワイはその代価を払う。まあ、それはワイがそれを言うべきではなかったってことを意味するんや。まあ、それはあり得るかもしれへん。でもそれが評価の唯一の可能な基準やないんや。なぜならあんたがしてるのは、結果をあんたの神にしてるからや。そうやろ?まあ、ワイはそれを逆にして、いや、いや、真理が神なんや。結果は変動するものや。でもそれは最初の公理を消し去るものやないんや。定数はどこにあるんや?定数は何なんや?多分あんたが言うたアブラハムが裸の女性たちに食べ物を与えられてたっていうのは、明らかに推測やけど、当時の状況を考えたら全然おかしくはないんや。でもそれは、ニーチェ自身の人生と対照的に考えさせられるな。
おそらく人生の早い段階でセックスをすることは有用なスタートになるんやないか。ステップ1、セックスをして、それから冒険に出かける。いくつかの基本的なこと、ワイが言うたように、これらの欲望の満足があるんや。だからワイは、性的な要素を持ち込むのは全く理にかなってると思うわ。なぜならそれは強力な動機付けの力やし、それを統合せなあかんからな。ワイはそれを冒険やとは思わへんけど。それはロマンチックな冒険やな。そうやな、そうやな。でも基本的な相互作用、性的な相互作用の欠如が、ドストエフスキーの中のインセルの冷笑主義に向かうエンジンになってると感じるんや。だから地面に足をつけるんやないように。その点については全く疑いの余地がないんや。ワイらは人類学的に、若い男性が女性にアクセスできない状況が最も不安定な社会状況を生み出すってことを完璧に知ってるんや。
それは良くないんや。そして彼らはその状況を逆転させるためなら何でもするやろう。何でもな。だからそれはめっちゃ危険なんや。でもワイはまた言うやろう。冒険の道そのものがロマンチックな魅力への最良の道やっていう示唆が至る所にあるんや。ワイらはこれをある意味でかなり直接的な方法で知ってるんや。グーグルボーイズ、つまり政治的に不適切なことを指摘するには純粋すぎるエンジニアたちがな。彼らは『10億の邪悪な思考』っていう素晴らしい本を書いたんや。ワイはその本が大好きなんや。それはエンジニアが心理学者になった感じの本なんや。だから彼らは、常識のある人なら決して言わへんようなことをたくさん言うんや。そして彼らは、まあ、ワイは知らへん、ワイは知らへん、ワイは知らへん、何が起こったのか言うのは難しいけど、それが偶然真実やったんや。そして彼らはポルノグラフィックなファンタジーのパターンを研究したんや。そして女性はポルノグラフィックな物語が好きで、画像やないんや。だから女性のポルノグラフィーの使用は文学的なんや。女性のポルノグラフィックなファンタジーの主な主人公は誰や?海賊、狼男、吸血鬼、外科医、億万長者、トニー・スタークなんや。知ってるやろ?そして基本的なポルノグラフィックな物語は美女と野獣なんや。それらの5つのカテゴリーや。
そしてワイは、閉じ込められた若い男性たちに、そしてワイは何度も言うてきたんやけど、まず第一に、クソみたいなクラブに加入せえって言うやろうな。なぜなら15歳の男性の交尾市場でのデフォルト値はゼロやからな。そしてそれには理由があるんや。知ってるやろ、ゼロはちょっと誇張やけど、そんなに大げさやないんや。そしてその理由は、まあ、あんた何を知ってるんや?つまり、あんたは何の役にも立たへんのや。あんたは何の役にも立たへんのや。あんたは何の役にも立たへんのや。あんたには可能性があるかもしれへん、そしてたくさんあるかもしれへん。そしてうまくいけばそれが明らかになるやろう。でもあんたは、あんたが時の始まりから常にあんたと同じ年齢の他の全ての敗北者と同じ負け犬やってことで落ち込んだりせんほうがええで。
でもあんたは聞くかもしれんな。まあ、それについてワイは何をすべきなんや?答えは、自分自身をまとめることや。知ってるやろ、背筋を伸ばして肩を後ろに引いて、何か冒険を引き受けて、あんたの呼びかけを見つけて、あんたの良心に従って、自分自身をまとめるんや。そしたらあんたは魅力的になるやろう。そしてワイらはこれが本当やってことを知ってるんや。見てみ、ワイらはこれが本当やってことを知ってるんや。男性の性的機会と相対的な男性的地位との相関は約0.6なんや。それは知能と学業成績の相関よりも高いんや。ワイは、相対的な男性の社会的地位と繁殖の成功との相関ほど大きな相関が、全ての社会科学や健康の文献の中で、二つの独立した現象の間にあるとは思わへんのや。それは断然、最も根本的な決定要因なんや。そこには因果関係があるんやろか?それはループなんや。
男性は社会的地位を獲得しようとする動機付けがあるんや。なぜならそれが彼らに繁殖の成功をもたらすからや。そしてそれは認知的にだけやなく、生物学的にもそうなんや。ワイはその例を挙げられるで。ワイが時々見るドキュメンタリーがあって、ワイが今まで見た中で最も素晴らしいドキュメンタリーやと思うんやけど、それは『クラム』っていうタイトルなんや。それはロバート・クラムっていうアンダーグラウンドの漫画家の物語なんや。彼は高校時代、男性のカテゴリーの中でも、デートが可能性としてないだけやなく、想像もできへんようなレベルの人やったんや。つまり、彼は底辺中の底辺やったんや。そして彼が女性から受けたほとんどの反応は、ただのノーやなくて、「あんた正気か?」っていうような、軽蔑を含んだもんやったんや。そしてそれから彼は成功したんや。
そしてそのドキュメンタリーがめっちゃ面白いのは、性的ファンタジーの完全な病理を追跡してるからなんや。彼は苦々しく恨みを持ってたんや。そしてもしあんたが連続性犯罪者の心理を理解したいなら、『クラム』を見たら、常識のある人が知りたいと思う以上のことを知ることになるやろう。でも彼はその後、変化を遂げるんや。それは部分的に彼が英雄的な冒険の道を選んだからなんや。そして彼は実際に家族を持って子供もできるんや。そして彼は実際にかなり機能的な人間になるんや。彼の兄弟とは対照的にな。一人は自殺するし、もう一人は文字通り常習的な性犯罪者になるんや。残酷なドキュメンタリーやけど、彼が青年期に、拒絶された後にしたことは、自分が興味あるものを見つけたことやったんや。彼はめっちゃ優れたアーティストやったんや。
彼は音楽にもすごく興味があったんや。そして彼はそういうことを一心不乱に追求し始めたんや。そして彼は成功したんや。そしてドキュメンタリーがこれを見事に追跡してるんやけど、彼が成功するとすぐに、彼は女性にとって魅力的になるんや。そしてあんたはまた、たとえ冷笑的やとしても、こう聞くかもしれんな。まあ、なぜ女性のためにワイはパフォーマンスせなあかんのや?そしてその答えは次のようなもんや:なんでワイがこんなことせなあかんのや?なんでワイがこんなことせなあかんのや?なんでワイがこんなことせなあかんのや?もしあんたが役立たずなら、彼女らは赤ちゃんを持つことになるんや。彼女らはもう一人の赤ちゃんは必要ないんや。
部分的に、女性がハイパーガミー(上昇婚)的なのは、つまり自分より地位の高い男性を求めるのは、彼女らが繁殖の負担を埋め合わせようとしてるからなんや。そしてそれはかなり大きいんや。ワイは、どの種でも雌は繁殖機能により多くを注ぐ性別やって言うやろうな。それは染色体の区別よりもっと根本的な定義なんや。そしてそれは人間で究極的な極端さに達してるんや。だから、もちろん女性は周りに役立つ誰かが欲しいと思うやろう。なぜなら、彼女らにとってのセックスのコストは、18年間の赤ちゃんへの依存期間やからな。だからワイは冒険が先やと思うんや。英雄的な冒険が先なんや。まあ、それは複雑やな。なぜなら、クラムたちのもう一つの問題は、彼らの母親が極端に病理的で、彼らは本物の女性的な養育やアフェクションをあまり受けへんかったってことやからな。
ああ、もちろんや。だから家族や社会は、ほとんどの場合、あんたを助けてくれへんのや。ほとんどの場合、英雄的な冒険に関しては、家族や社会は障壁になるんや。触媒にはなれへんのや。まあ、良い家族では、両方になるんや。なぜなら彼らはあんたの行動に制約を課すけど、知ってるやろ、ワイは多くの成功した人々に、彼らの呼びかけについてインタビューしたことがあるんや。つまり、言うたらそれについてな。ワイはそれを全てのポッドキャストゲストにしてるんや。あんたが成功に向かって取った道は、どうやって明らかになったんや?そしてそれはめっちゃ、そのパターンはめっちゃ典型的なんや。ワイがインタビューした人のほぼ全員が母親と父親を持ってたんや。そしてワイはそれが、ワイは思うに、今や、それは不変やないけど、ワイは99%の時間でそうやって言うやろうな。
それはめっちゃ高いな。そして両親の両方、あるいは少なくとも一人が、でもしばしば両方が、その人の興味や発展への道をめっちゃ励ましてたんや。それは魅力的やな。ワイはあんたがそういう風に分析するのを前に聞いたことがあるけど、ワイはそのアイデアに反応があったんや。なぜならあんたは両親のポジティブな面に焦点を当ててるからや。そうやな。ワイは、多くの伝記では、家族内の闘争が偉大さの触媒になってたように感じるんや。多分ワイは誤解してるんかもしれへんけど。いや、いや。ワイはあんたが間違ってるとは思わへんわ。ワイは、多分、間違ってたら訂正してほしいんやけど、ワイはそれがポジティブな感情とネガティブな感情の間のダイナミクスの反映やと思うんや。
例えばワイの息子は、ワイが思うにめっちゃうまくやってるんや。彼は全ての面で全力を尽くしてるんや。ワイが思うに。彼は素敵な家族を持ってるし、奥さんとも仲良くやってるし、めっちゃ優秀なミュージシャンやし、会社も持ってるし、うまく運営してるし、一緒にいて楽しい人間なんや。彼は比較的扱いにくい赤ちゃんやったんや。彼は頑固やったんや。そしてそれで、彼は「ノー」を受け入れへんかったんや。だからそこには、彼の行動を規制するのにある程度のもめごとがあったんや。彼は2歳の時、よくステップに座って自分の行動をまとめようとしてたんや。そしてそれが制約やったんや。でもそれは彼に反対してたわけやないんや。なぜならそれは彼の快楽主義的な欲望の即時の表現に反対してたからや。
でもそれはまた、さらなる発展への刺激でもあったんや。彼がステップにいる時のワイのルールは、「文明化された人間になる気があるなら、ステップから降りてええで」っていうもんやったんや。そしてあんたは思うかもしれんな。まあ、それは単に恣意的で、超自我的で、家父長制的で、抑圧的な制約やないか?あるいはあんたはこう言えるかもしれんな。いや、ワイが実際にしてるのは、彼の大脳皮質の成熟を促進してるんやって。なぜなら子供が落ち込んでる状態の時、子供が悪い行動をする時は、通常、彼らが何か原始的な感情や動機的な衝動の支配下にあるからなんや。彼らは怒ってるか、過度に熱中してるか、動揺してるか、利己的やったりするんや。つまり、未成熟な方法で表現された狭い自己中心性なんや。
でも見てみ、ワイが間違ってたら教えてほしいんやけど、偉大さのエンジン、少なくとも男性側では、しばしば偽りを証明しようとすることやったように感じるんや。あるいは父親の受け入れを得ようとすることやったりな。だからその緊張感、あんたが言うたような親が励ましてるんやなくて、基本的に「あんたにはそれはできへん」って言ってる状況やな。オッケー、心理学者としてのワイの観察では、誰かが自分の行動をまとめるのはめっちゃ難しいんや。少なくとも彼らの人生に一人、励ましてくれて前に進む道を示してくれる人物がいない限りはな。だからあんたの人生にはたくさんの多様性があるかもしれへん。そしてもしあんたの周りに良いモデルが一人いて、あんたが神経学的に無傷なら、あんたはそのモデルにしがみつくことができるんや。
今、あんたはそのモデルを本の中でも見つけることができるんや。そして人々は時々そうするんや。例えば、ワイはかなりバラバラな子供時代を送った人々にインタビューしたことがあるんやけど、彼らは本に向かって、過去の英雄たちの冒険の中にガイドとなるパターンを見つけたんや。なぜならそれはそれについて考える良い方法やからな。そしてワイは『アンジェラの灰』っていう本を読んだことがあるんやけど、それはアイルランドの作家のフランク・マコートが書いた素晴らしい本なんや。美しい本や。そして彼の父親は巨大な飲んべえやったんや。彼は、家族に入ってくる毎秒を飲んでしまうアイルランドの酒飲みで、彼の多くの子供たちが貧困の中で死んでいったんや。そしてフランクがしたこと、それは人間の精神への証言なんやけど、彼は父親を概念的に二つの要素に分けたんや。
朝の酔ってない父親がいて、彼とは関係があったんやけど、午後遅くと夜の酔っ払って役立たずの父親もいたんや。そして彼はネガティブな方を拒絶して、ポジティブな方との関係を増幅させたんや。まあ、知ってるやろ、彼には他にも良いところがあったんやけど、彼は、めっちゃ上手に区別したんや。ワイは言うてるけど、部分的にあんたが提起してる質問は、有益な敵対者を持つことがどの程度有用かってことやな。そうや、ある程度はな。そしてワイは、闘争のない進歩は不可能やと思うんや。そしてワイは、あんたの身近な誰かが間違ってると証明しようと動機づけられる状況があると思うんや。でもそれはまた、あるレベルで、何らかの理由で、あんたが実際に彼らの判断を気にしてるってことも意味してるんや。
あんたは彼らを完全に無視してないんや。まあ、ワイが言うてるのは、若い男性が父親の承認を得ようとしてるっていう原型があるってことなんや。そしてワイはそれが、ワイが読んだたくさんの伝記の中で繰り返されてると思うんや。ワイは知らへんけど、どこかに承認のエンジン、励ましのエンジンがあったはずやな。多分本の中にあったんかもしれへんし、多分母親の中にあったんかもしれへんし、あるいは両親の役割が逆転してたのかもしれへんな。まあ、ワイの父親は喜ばせるのが難しかったんや。めっちゃな。あんたは成功したことあるんか?そうや。でも簡単やなかったんや。決してな。あんたが成功した瞬間はいつやったんや?遅かったな、かなり遅かったな。40歳くらいかな、もっと後かもしれへん。それは徐々にやったんか、それとも決定的な瞬間があったんか?
ワイの父親は、ワイがやった良いことを常に承認する気はあったんや。でも彼は決して感情を豊かに表現するタイプやなかったし、基準はめっちゃ高かったんや。今、ワイにとってはおそらく幸運やったんやろうな。そしてそれはあんたが聞いてる質問に関係あるんや。もしあんたが誰かを最適に動機づけたいなら、神様、それは複雑やな。なぜなら二人の間に気質的なダンスがなきゃあかんからや。あんたが本当に望むのは、誰かがあんたに対して、あんたが達成可能な可能な限り最高の基準を適用することなんや。そうやろ?そしてそれは微妙なダンスなんや。なぜならあんたはそれを適切にするには、あんたの子供との関係を持たなあかんからな。なぜならもしあんたが父親として最適に動機づけたいなら、あんたは子供たちを常に限界に置いとくんや。
つまり、あんたは他の誰かにとっては良いと思えるようなことを、あんたの子供には褒めへんかもしれへん。なぜなら、あんたは彼らがもっと良くできると思ってるからや。そしてワイの父親はそのアイデアについてかなりはっきりしてたんや。彼は常にワイがもっと良くできると期待してたんや。そしてそれは面倒やったんか?それはまるで、ワイが若い頃はしばしば、彼を喜ばせることは不可能やと感じたんや。でもワイはそれが正しくないってことも知ってたんや。見てみ、ワイは実際にそれが正しくないってことを知ってたんや。なぜなら特にワイが本当に若かった頃のことを覚えてるんやけど、ワイが彼を喜ばせたことがあったってことを知ってたからや。ワイはそれが可能やってことを知ってたんや。だからそれは予測不可能で恣意的なものやなかったんや。ただ難しかっただけなんや。彼はかなり良い最適を hit したみたいやな。でも各個人によって、その最適は異なるんやろ。
なぜあんたは子供たちと関係を持たなあかんのか、あんたは彼らを知って、自分自身とも、そして奥さんとも仲良くせなあかんのや。あんたはその最適を hit できへんのや。その最適はおそらく愛なんや。なぜなら愛は単なる受容やないからや。愛は受容と励ましなんや。そしてそれだけやないんや。それはまた「いや、それはせんといて。それはあんたの価値以下や。あんたはもっとできるはずや」っていうこともあるんや。そしてそれはどれくらい厳しくあるべきなんや?それは、それは本当に難しい質問なんや。知ってるやろ。もしあんたが本当に誰かを愛してるなら、あんたは彼らの愚かさを許さへんやろう。それをせんといて、知ってるやろ。ワイが小さな子供たちに持ってたルールの一つは、公共の場であんたを馬鹿に見せるようなことは何もせんといてってことやったんや。なぜって?なぜならワイはあんたが自分を辱めるのを見たくないからや。なぜやないんや?
なぜならワイはあんたが好きやし、あんたはすごいと思ってるし、あんたは公共の場で馬鹿みたいな行動をして、人々にあんたについて間違った印象を持たせるようなことはせんほうがええからや。いや、関係の中ではどうなんや?成功した関係はどれくらいの挑戦、どれくらいの平和が必要なんや?成功した関係は簡単なものなのか、それとも挑戦的なものなのか。ワイは、ある程度それはあんたの気質によると言うやろうな。ワイの妻はかなり挑発的な人物やし、ワイはときどき、彼女がもう少し付き合いやすい人やったらなあって気軽に思うことがあるんやけど、でもそれについて考えるとすぐに、そんなこと思わへんのや。そうやな、なぜならワイは常に彼女のことが好きやったからや。
ワイらは小さい頃からの友達やったし、彼女は荒っぽく遊ぶんやけど、ワイはそれが好きなんや。結果的にな。今、それは時々面倒くさいってことを意味せえへんけど、知ってるやろ。そしてそれはある程度気質的な問題になるやろうし、交渉の問題にもなるやろうな。例えば彼女は荒っぽく遊ぶけど、公平にな。そして公平な部分は、それを確立することがワイらの継続的な交渉の一部やったんや。そしてその一部は遊びの中にあるんや。あんたは自分自身や自分の気質について知ることができるんや。なぜならワイは、それが明確になるまでは分からへんと思うからや。テストされるまでは-ああ、間違いなくそうや、間違いなくそうや。あんたは関係の中で自分自身について様々なことを知るんや。それは確かやな。まあ、そして部分的に、特に女性から男性に対する挑発性がある理由は、彼女らが男性をテストしたいからなんや。
つまり、あんたは誰かがあんたを悩ませてる時に冷静でいられるんか?まあ、なぜ女性がそれを知りたいと思うんやろ?まあ、多分彼女はあんたが突然キレて彼女の子供たちを傷つけないかを知りたいんやないか?そしてそれをどうやって見つけ出すんや?あんたに聞くんか?まあ、あんたは「ワイは決してそんなことせえへん」って言うやろうな。それは、決してってことは決してないんやな。さあ、それが決して起こらないかどうか見てみようや。ワイらは知らへんのや。人々がどうやって関係の中でお互いをテストし合うのか、あるいはなぜそうするのかは正確には分からへんけど、それは激しくて必要なことなんや。そして男性の気性との関係はどうあるべきなんや?
あんたはそれを持つべきやし、それを調整できるべきやな。つまり、それは女性のファンタジーを特徴づける怪物的なものの魅力の一部なんや。なぜなら、そしてニーチェはこれを指摘したんや。ニーチェに戻るけど、知ってるやろ。ニーチェの主張の一つは、道徳として通用するもののほとんどは単なる臆病さにすぎないってことやったんや。知ってるやろ、ワイは決して妻を裏切らへんって。つまり、ああ、あんたに本当に魅力的だと思う人から誘われたことがあるんか?あるいは本当に魅力的だと思う何十人もの人から誘われたことがあるんか?つまり、まあ、ワイは決して裏切らへんって。それは、いや、あんたにはただ機会がないだけなんや。今、ワイはみんながそういう立場にいるってわけやないって言うてへんのや。知ってるやろ、機会があっても裏切らへん人もおるってことは事実やからな。
でもそれは気性に関しても同じことが言えるんや。ああ、ワイは平和な人間やって。それは違うんや。あんたはただの弱い臆病者やだけなんや。あんたは対立を恐れてるだけで、物理的にも形而上学的にも、そしてあんたはそれを道徳性として偽装してるんや。なぜならあんたは自分の弱さと臆病さという事実に向き合いたくないからや。そしてニーチェが批判してた歪んだ疑似キリスト教的道徳性の一部がまさにそういうもんやったんや。そしてそれは嫉妬や恨みと明確に結びついてたんや。彼はそれを明確に結びつけて、人生での失敗を弱い臆病さにすぎない道徳性で覆い隠すことが、全てを蝕み破壊する恨みに変わるって言うてたんや。そしてそれは意図的にそうするんや。
そうやな、ワイは彼が批判してたのは、優しさの仮面の下に恨みの海がある場合やと思うわ。そうやな、それは間違いないな、それは間違いないな。それはまた、人々に対してあまりにも率直すぎることの危険性でもあるんや。これは見てみ、これはまた別のことなんや。例えばワイの妻のことやけど、彼女はそれほど協調的やないんや。つまり彼女はそれほど協調的やないけど、恨みを持ってへんのや。そしてそれは、彼女が与えたくないものを与えへんからなんや。そしてもしあんたが協調的で優しくて対立を避けたがるタイプなら、あんたは他人を喜ばせようとし過ぎて、自分を追い込みすぎてしまうんや。そしてそれがあんたを苦々しく恨みを持たせるんや。だからそれは役に立たへんのや。あんたはこれをポッドキャストで言うたことで後でトラブルに巻き込まれると思うか?
いや、いや。ワイらはお互いのことをよく知ってるし、ワイが言うたように、それはワイが尊敬できる特徴なんや。それは挑発的で挑戦的やけど、うまく機能してるみたいやな。ワイらは50年間一緒にいるからな。さあ、アイデアの領域から歴史と現実の領域に降りてくるために、ちょっとトイレ休憩を取らせてもらえんかな。ワイは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期が、歴史上最大のアイデアのテストの一つやったと言うやろうな。本当に、善と悪の本質を理解するのに役立つ最もドラマチックな種類のアイデアやったんや。ワイはただ善と悪についての質問をしたいんや:チャーチルは多くの点で良い人やなかったし、スターリンはあんたが広範に記録してるように恐ろしい人間やったけど、両者ともヒトラーというさらに悪い人間を止めるのに必要やったって主張もできるんや。ほな、どの程度まで怪物と戦うのに怪物が必要なんやろ?
より大きな悪と戦うのに悪い人間が必要なんやろうか?答えは、全てが適切な場所にあるってことやな。知ってるやろ、ワイらは恐怖なしの方が人生が楽になるって思うかもしれへんな。ワイらは怒りや痛みなしの方が人生が楽になるって言うかもしれへん。でも真実は、それらのものは大きな苦しみを引き起こす可能性があるけど、有益なもんなんや。でも、それらは適切な場所になきゃあかんのや。そして一つの文脈では恐ろしい悪の力になり得る能力が、適切な文脈では善のための恐ろしい力になり得るんや。でもそれは適切な文脈の中では悪の恐ろしい力やないんや。良い人間は恐るべき存在でなきゃあかんのや。そして部分的にそれが意味するのは、ワイが思うに、あんたは「ノー」って言えなあかんってことや。そして「ノー」は「もしあんたがその行動パターンを続けるなら、あんたの気に入らへんことが100%確実に起こるやろう」っていう意味なんや。そしてそれが真実で、あんたがそれを実行する覚悟があるなら、あんたはそれを何度もする必要はないんや。怪物性に関してや。
弱い男は良くない。ただ弱いだけなんや。それがニーチェの観察やったんや。それが部分的に、彼が再び力への意志を、言うたら、全ての価値の再評価と結びつけた時に、結果的に生産的やなかった方法で扱おうとした理由なんや。彼が言うてたことに何かがあったってわけやないんや。いや、恐るべき人間は尊敬に値するんや。そしてあんたも知ってるやろ。彼らに手を出すなってな。ダグラス・マレーはその良い例やな。彼はあんたも知ってるように、かなり小柄な男やけど、鋼鉄の背骨を持ってるんや。そして彼には怪物的なものがほんの少しだけあるんや。ジョコ・ウィリンクもそうやし、ジョー・ローガンもそうや。そしてあんたもそうやけど、そこには異なるレベルがあるんや。ワイから見ると、チャーチルはあんたが話してるものを代表してるかもしれへんけど、第二次世界大戦でヒトラーを止めるにはスターリンが必要やったんや。まあ、ワイは疑問に思うな。そうやな、そうやな。そしてもしワイがこの複雑な状況に割り込んでもええなら、ヒトラーはスラヴ人全体、ユダヤ人全体、スラヴ人、ジプシー、アーリア人でない全ての人を奴隷化し絶滅させるまで止まらへんかったんや。でもそれからスターリンは、赤軍によるドイツ人女性の大量レイプっていう形で、ベルリンに向かって行進する中で、人間が持ち得る怪物性の完全な現れを見せたんや。あんたは簡単にこういう状況に陥る可能性があるんや。あんたの前にある選択肢が全て悪いものばかりっていう状況に、残念ながら
簡単に陥る可能性があるんや。知ってるやろ、それが部分的に、もしあんたに少しでも分別があるなら、人生でめっちゃ慎重に行動しようとする理由なんや。なぜならあんたは、あんたに残された選択肢が全て恐ろしいものになるほど多くの間違いをした状況に陥りたくないからや。そしてあんたは言うたな。まあ、スターリンと同盟を組む必要があったんやろうか?つまり、まあ、第二次世界大戦のような複雑なものの軌跡を後から推測するのはめっちゃ難しいんやけど、ワイらは少なくとも気軽に、西洋人として一般的にそうしてきたように、その同盟は必要やったって言えるんや。今、ワイは西洋が第二次世界大戦の後に犯した間違いは、ファシズムとしたのと同じくらい率直にイデオロギーとしての共産主義の大惨事に対処しなかったことやと思うんや。そしてそれは特に知識人や大学に当てはまるんや。
ワイがハーバード大学とトロント大学の両方で教えてた時、ワイのパーソナリティのクラスで、ワイらはソルジェニーツィンを勉強したんやけど、彼は多くの点で実存的心理学者で、深い洞察を持ってた人やったんや。彼らの誰もソビエトの残虐行為について何も知らへんかったんや。彼らの誰も、ウクライナで何が起こって、600万人の生産的な人々が死んだことについて何も知らへんかったんや。ロシア革命の後に共産主義者が何千万人もの人々を殺したってことを全く知らへんかったんや。彼らは毛沢東や大躍進についてはさらに知らへんのや。そうやな、そうやな。いくつかの推定では1億人やな。まあ、あんたの誤差範囲が何千万人もあるってことは、本当に大惨事の指標やな。そして誰も、ソビエト連邦で直接的な抑圧や間接的な原因で何人の人が死んだのか知らへんのや。2000万人ってのは妥当な推定のように思えるな。
ソルジェニーツィンの上限はそれよりも高かったんや。あんたは抑圧され殺された知的生産性をどうやって測るんや?知識人や芸術家、作家の数、あるいは真実を語ろうとした人々の数をどうやって測るんや?絶対にそうやな。だからそうやな、大惨事やったんや。そしてワイは、西洋の失敗はスターリンと同盟を組んだことやなくて、ワイは言うてるけど、それはダグラス・マッカーサーが望んでたことやったんや。彼は第二次世界大戦後にソビエトを一掃すべきやと考えてた。そして彼らはそういうことが可能になるような権威のある立場から彼を排除したんや。そして人々は疲れ切ってたんやけど、マッカーサーは間違ってたんやろうか?まあ、彼はスターリンがヒトラーと同じくらい、あるいはそれ以上の怪物やったって主張するのに間違ってはおらへんかったんや。
だから、左翼的傾向、急進的左翼的傾向の美化が西洋の罪やと思うんや。スターリンと同盟を組んだことよりもっと深刻にな。難しい、微妙な話題やけど、もし現代を見て、アメリカにおける共産主義マルクス主義の脅威を見るなら、ワイにとっては、カマラ・ハリスのような人を共産主義者と呼ぶのは20世紀の残虐行為に対して無礼やと思うんや。でもワイは、ドナルド・トランプのような人をファシストと呼ぶときに使われる極端な言葉のエスカレーションを見るんや。そしたら、カマラ・ハリスのような人に対して同様の極端な用語を使うのは全く理にかなってるように思えるんや。でも多分ワイはあんたの評価を聞きたいな。もしアメリカの政治的風景の中の共産主義の問題と脅威を見るなら、ジョー・バイデンやカマラ・ハリスのような人物はまあ、ワイが最初に言うのは、今日の政治的風景を政治的風景として見るのは実際には間違ってると思うんや。ワイはそれが正しい参照枠やないと思うわ。なぜならワイが見てるのは、ダークテトラッド型パーソナリティの非常に小さな割合の人々や。つまりマキャベリ的で操作的、自己愛的で不当な注目を求める、サイコパス的で捕食者的で寄生的、そしてサディスティックな人々や。それは他の3つの特性と一緒になるからな。深刻な形では、それはおそらく人口の3〜5%くらいやと思うわ。そして、彼らは一般的に文明化された人々や安定した社会的相互作用によってかなりうまくコントロールされてるんや。ワイは、彼らの策略がコストのかからないソーシャルメディアのコミュニケーションによって抑制されなくなって、不相応な影響力を得てると思うんや。
今、これらの人々は不当な認識と社会的地位、そしてそれに伴うすべてのものを求めてるんや。そして彼らはどうやってそれを手に入れるかなんて気にせえへん。なぜならワイが彼らがそれを望んでるって言うとき、それは彼らが望む唯一のものやからや。だからソーシャルメディアの領域では、あんたが言うたように、そうや、でもあんたはまた、彼らが政治の領域、政治家などの領域でも過剰に代表されてるって示唆してるんか?彼らは政治の領域で過剰に代表されてるし、分裂的な政治的言説の領域でも過剰に代表されてるんや。なぜなら彼らはアイデアを使えるからや。まず第一に、彼らは右翼の善意のアイデアや左翼の善意のアイデアを使えるし、そのどちらも、そしてそれらの間を行ったり来たりすることもできるんや。それを彼らが本当に何をしてるのかのカムフラージュとして使うんや。
あんたはたくさんの人々にインタビューしてきたし、めっちゃ強力な頭脳を持ってるんや。あんたは人々を上手く読み取れるんや。ほな、あんたがサイコパスと向かい合ってるってどうやって分かるんや?ワイは普通の社会状況ではそれが分かるとは言えへんな。ワイらにはそういう人々をコントロール下に置くために進化したメカニズムがあるんや。例えばあんたとワイが一連の相互作用をして、あんたが一度ワイをだましたとするやろ。ワイはそれを忘れへんやろう。今、ワイはその一度のことであんたを見限ったりせえへんかもしれんけど、もしそれが3回起こったら、もうワイらは一緒に遊ばへんようになるやろうな。そして普通の時代には、ワイらの社会的ネットワークのほとんどがつながっていて相互作用してるんや。だからもしあんたがワイを3回だましたとして、ワイがそれに気づいたら、ワイは知ってる全ての人に言うやろうし、彼らは知ってる全ての人に言うやろう。そしてすぐにみんながそれを知るようになって、あんたの手口はもう通用せんようになるんや。
でもそれは、ワイらがあんたが誰かを知ってて、継続的にコミュニケーションを取ってるって前提があるんや。まあ、それがオンラインでは全部なくなってしまったんや。匿名性がそれをしてるし、ソーシャルメディアプラットフォームとそのアルゴリズムによる感情的な強度の増幅もそうなんや。ワイはこれがツイッターで絶え間なく起こってると思うんや。ワイらは、サイコパスの5%に極端に不相応な声を与えてるんや。そして彼らがしてるのは、左側に一群のサイコパスがいて、彼らは皆「ワイらはめっちゃ思いやりがある」って言ってる。そして右側にも一群のサイコパスがいて、今のところ彼らは皆「ワイらはめっちゃキリスト教的で言論の自由を重視してる」って言ってる。それは違うんや。あんたは自己愛的なサイコパスやし、それはあんたのカムフラージュなんや。
そしてあんたは匿名性の背後に隠れて、分裂的で扇動的な言葉を使って愚か者を引き付け、あんたの社会的地位やクラウトを高めようとしてるんや。そしてそれだけやない、あんたのサディスティックな衝動を満足させようとしてるんや。見てみ、問題は誰がサイコパスで誰が異端の真理の探求者かを見分けるのが難しいってことやな。そうやな、もしあんたがタッカー・カールソンの最近のインタビューについて慈悲深く見るなら、それがまさに彼が直面したジレンマやったって言えるし、それは難しいんや。例えばワイはアンドリュー・テイトにインタビューすることについて考えたことがあるんやけど、ワイは「それはやめとこう」って思ったんや。そしてワイは「なぜや」って考えた。ワイは彼が全然ワイを魅了せえへんってことは明らかやないと思ったんや。ワイはロバート・ヘアっていう人を知ってたんや。ロバート・ヘアは世界で最も有名なサイコパシー研究の権威で、サイコパシー行動の臨床分析の分野を確立した人やった。ヘアはかなり協調的な人やったんや。知ってるやろ、彼はかなり協調的な人やったから人々に対して好意的に考えるタイプやったんや。そして彼は何百人もの深刻なサイコパス、つまり収監された暴力的な犯罪者たちにインタビューしたんや。そして彼はワイとの会話の中で、サイコパシーの測定のための臨床チェックリストを持ってたから、サイコパスを普通の犯罪者から見分けることができたんやけど、暴力的な犯罪者サイコパスと向かい合う度に、彼らは彼をだましたって言うてたんや。そしてそれはインタビューやなかったんや。それは臨床インタビューやったんや。そしてそれはインタビューやなかったんや。彼がビデオを後で見直すまでは、彼らが何をしてたのか分からへんかったんや。でも対面では、彼らの手口は彼の検知能力よりも洗練されてたんや。まあ、オッケー、これは面白いな。なぜならあんたはめっちゃ優れたインタビュアーやからや。ワイはあんたがプーチンのような人物にインタビューしたらええと思うわ。だからあんたがサイコパシーに直面したら馬鹿になるっていうこの考えは、ワイにはピンとこえへんのや。ワイは協調的な人間なんや。それが問題なんや。ワイは人々に好意的に考える傾向があるんや。そうやな!そうやな!
でもそれは良いことやと思うわ。なぜならあんたのやり方やと、あんたはそれから逃げられへんからや。あんたは相手の人を理解しようとして、共感を持って探ろうとするんや。そして相手が質問に苦労してる細かいニュアンスの中で、サイコパシーが明らかになるんや。そうやな。だからエンジニアリングの観点から見ると、ワイらは二つのことを分けて考えなあかんな。一つはオンラインでの匿名性によるサイコパシーの過剰な代表性で、これは深刻で興味深い問題やな。でも一対一のインタビューでは、人間の会話における仕事は、サイコパスと話さないことやなくて、話すことやと思うんや。ワイは、例えばヒトラーにどうやってインタビューするんやろ?
まあ、ワイはあんたも知ってるように、ワイの臨床実践の中で、非常に難しい臨床インタビューをしたことがあるんや。ほなあんたはそれにどうアプローチするんや?まあ、ワイはおそらくほとんどの会話にアプローチするのと同じようにアプローチするやろうな。それは次のようなもんや:ワイはあんたが真っ直ぐなゲームをしてると仮定するし、ワイはあんたが真っ直ぐなゲームをしてると仮定するし、ワイはあんたが真っ直ぐなゲームをしてると仮定するし、ワイはあんたが真っ直ぐなゲームをしてると仮定するけど、ワイは見てるんや。そしてもしあんたが時々変なマヌーバーを入れてきたら、ワイはそれに気づくやろう。そしてあんたがそれを3回やったら、ワイは思うやろう:「オッケー、分かったわ。ワイはワイらが一つのゲームをしてると思ってたけど, 実際には別のゲームをしてたんやな。」そしてもしワイがそれに気づくほど賢ければ、それは通常ワイにとってかなりうまくいくんやけど、ワイはいつもそれに気づくほど賢いわけやないんや。
見てみ、ここに良いところがあるんや。録音されてへん一対一の会話と、多くの人に聞かれる会話は違うんや。そしてワイはいつもそれに気づくほど賢いわけやないし、ワイはいつもそれに気づくほど賢いわけやないし、人々に、なぜならワイはリスナーや視聴者の知性を信頼してるからや。あんた以上にサイコパシーを検出できると思うんや。そうやな、ちなみにワイもそれは本当やと思うわ。もしワイが組織したことを後悔するようなインタビューを数回したことがあるとしたら、それは不適切かもしれへん人のアイデアをより広い聴衆に紹介してしまったと感じたからや。
でもワイの結論と、ワイのプロデューサーや話した人々の結論は、ワイらはそのインタビューや議論を流して、聴衆に判断させることができるってことやったんや。そしてワイは彼らがそうすると思うわ。そしてワイはまた、長時間のインタビューがそれに特に適してると思うんや。なぜなら特にあんたが疲れ果てた状態で、2時間半もの間、操作的な態度を維持するのはそんなに簡単やないからや。そうやな。あんたは疲れるんや。あんたはイライラするんや。あんたはそれを示すんや。あんたは思考の流れを失うんや。そしてそれは実際、全ての世界のリーダーにも当てはまると思うんや。1時間では短すぎるんや。2時間以上経つと、あんたは漏らし始めるんや。
そしてワイはリスナーの知性を信頼してるんや。そういうのを検出するのにな。そうやな、それは分散した群衆の知性かもしれへんな。そしてワイが言うてるのは、それがワイが見てきたことなんや。そうやな。YouTubeのインタビューは、長期間にわたって人々を騙すのは難しいってことを示してるんや。そしてそれは部分的に、みんなが少し違う嘘の検出器のセットをテーブルに持ってくるからやと思うわ。そしてもしあんたがそれを集約したら、それはめっちゃ正確なんや。でももちろん、知ってるやろ、それは複雑やな。なぜならナチスのイデオロギーは20年代に広まったからや。マルクス主義とナチズムの間には本当の戦いがあったんや。ああ、そうやな。そうやな。そしてワイはナチスのイデオロギーに対する検閲の試みがいくつかあったと思うんや。検閲はしばしば逆効果になるんや。
それは周辺的なイデオロギーに力を与えるんや。なぜなら、それは権力を持つ人が真実を聞かれたくないっていう兆候やからな。そしてそれは火に油を注ぐだけなんや。それはまた妄想的なタイプを動機づけるんや。なぜなら一般的に、妄想が制御不能になる理由の一つは、妄想的な人々がほぼ必然的に迫害されるようになるからや。なぜなら彼らはめっちゃ神経質で疑り深いから、人々が彼らの周りで神経を使うようになるんや。まるで舞台裏で何かが起こってるかのようにな。そして彼らはますます不信感を持ち、ますます妄想的になるんや。そして最終的には、彼らはめっちゃひどい行動を取り始めるから、実際に、しばしば法的権威によって迫害されるようになるんや。そして、知ってるやろ、彼らはそのウサギの穴を下っていくんや。そして、知ってるやろ、マスクはある程度それに賭けてるんや。
彼はツイッター、Xでの自由な表現が、それ自体で整理されて、全体的にプラスの効果をもたらすと信じてるんや。そしてワイはXでたくさんのめっちゃ悪いアカウントをフォローしてるんや。なぜなら左の病理、言うたら、そして右の病理を見守りたいからや。少なくともワイの臨床的な方法で、サイコパスたちが踊り回って、彼らの破壊工作をしようとしてるのを見てるんやと思ってな。そしてそれは確かに醜い場所に住むことになるんや。でもそれはまた、本当に悪い行為者のごく一部の少数派が不相応な影響力を持つ可能性があるってことでもあるんや。そしてワイが常にソーシャルメディアチャンネルに望んできたことの一つは、匿名のアカウントと認証済みのアカウントを分けることなんや。
それらは別のカテゴリーにあるべきなんや。自分の考えを言って、自分の評判にダメージを受けるリスクを取る人々と、匿名の人々を混同せんほうがええんや。もし匿名の人々が何を言うてるか見たいなら見れるけど、それを実際の人々と混同せんほうがええんや。なぜなら彼らは同じやないからや。人々は匿名の時の方がもっとひどい行動を取ることが分かってるんや。それは心理学的によく確立された発見なんや。まあ、そしてワイは、ワイらの文化への危険は実質的やと思うんや。ワイは、おそらく全てが2015年頃からかなり深刻にずれ始めた理由は、ワイらがこれらの新しいコミュニケーションの方法を発明したからやと思うんや。ワイらはそれらをどうやって取り締まればええか全然分からへんのや。そしてサイコパス的な操作者たちは、自由に振る舞ってるんや。インターネットの約30%はポルノグラフィーなんや。
インターネットトラフィックの大部分は完全に犯罪的なもんなんや。そしてその周りには半影がある。知ってるやろ、サイコパス的、自己愛的、トラブルを起こすトロールたちや。そしてそれがオンラインでの相互作用の大部分を占めてるかもしれへんのや。そしてそれは部分的に、人々が責任を取れへんからなんや。だからフリーライダーたちが自由に振る舞ってるんや。左右のサイコパスに対して、ワイらの社会をどうやって強靭にするかは興味深い技術的な課題やな。そうやな。そうやな。それは時代の根本的な問題かもしれへんな。ソーシャルネットワークによるコミュニケーションの増幅を考えるとね。そうやな。一般化してサイコパスについて考えるなら、ボットについても考えられるな。そうやな。ボットはサイコパスと似たような行動を取るんや。確信に満ちてて、他のことを気にせえへん。何らかの機能を最大化しようとしてるんや。
注目やな。注目、そうや。そうや。短期的な注目はさらに悪いな。なぜなら、知ってるやろ、それもまた問題やな?アルゴリズムが短期的な注目の掴みを最大化しようとしてるなら、それらは未熟な注目のエージェントみたいに振る舞ってるんや。そしたら、最悪のシナリオを想像してみ。ネガティブな感情の方が注目を集めやすい。そして短期的な満足感の方が注目を集めやすい。そしたらあんたは、ネガティブな感情による短期的な注目の掴みを最大化しようとしてるんや。ワイは、それが原則になるとは思えへんわ。ワイらが前に話してた、持続不可能な統一的な公理について、それは間違いなくその一つやな。ネガティブな注目、短期的な注目を引くネガティブな感情の広がりを最大化する。ジーザス。ひどいわ。ワイはただ、そんなにたくさんのサイコパスがおるとは思えへんのや。
だからちょっと反論させてもらうと、オンラインで見る極端な左翼や極右、あるいはトロール全般の多くは、ただの若い人たちが、ワイらが話してきたような似たようなことを経験してるだけやと思いたいんや。シニシズムや恨みを試してみるみたいな。そこには薬物的な側面もあるんや。それに引き寄せられるもんがあるんや。誰かについて悪口を言うたり、誰かを貶めたりするのにはな。ワイは言うてるけど、そこには何らかの快感があるんや。そこには暗い側面があるんや。そっちに引き寄せられるもんがあるんや。そしてワイは思うんやけど-それはサディスティックな引力やな。
そしてワイは思うんやけど、多くの人々は、ワイは言うてるけど、あんたがサディスティックって言うと、それが何かの、それは病理みたいに聞こえるけど。それは他人の苦しみを楽しむことやな。そうやな。そうやな。でもワイはただ、ワイら全員がそういう能力を持ってると思うんや。全ての人間がある程度その能力を持ってるんや。人によって程度の差はあるけどな。そして若い時には、それが自分自身に与える影響を完全には理解できへんのや。そうやな。だから他人を貶めることに参加すると、それは自分自身の人間としての発展にコストがかかるんや。間違いないな。それはあんたをドストエフスキーの『地下室の手記』の地下室に、皮肉で、そういうものすべてに向かわせるんや。孤独にな。
だから多くの若い人たちがそれを試すんや。理由は、年を取れば取るほど、それには大きなコストがかかることに気づくから、そうせえへんようになるんや。でも若い人たちは-だからワイは、トロールの大部分は、ただ嘲笑を試してみてるだけの人たちやと信じたいし、そう望んでるんや。間違いないな。そしたら彼らは救われる可能性があるんや。彼らは助けられる可能性があるんや。他人を称賛することの方が、成長があり、繁栄があるってことを示すことができるんや。そして実際に、アイデアを批判することも、でも嘲笑や「笑」みたいな形やなくて、自分自身を世界の中で形作ることで、自分のアイデアを強く力強い方法で形作ることで、そして匿名性の仮面を取り去って、自分のアイデアの背後に立ち、そのアイデアの責任を負うことでな。そうやな。
ワイはそのすべてが正しいと思うわ。ワイは思うんやけど。ワイは、それが若い人たちの間でより起こりやすいっていうアイデアは、それは明らかやと思うわ。人々は成熟するにつれて、より協調的で誠実になるんや。だからワイらは実際に、あんたが言うたことが技術的に正しいってことを知ってるんや。そういう行動に快感を覚える生まれつきの傾向があるのは間違いないし、それはある程度支配的な努力と関連してるんや。そしてワイは、あんたが指摘したように、そういうパターンを試してる多くの人々が社会化によってそこから抜け出せるってのも事実やと思うわ。実際、おそらくほとんどの人がな。繰り返し犯罪を犯すタイプでさえ、20代後半には止める傾向があるんや。だからそれを想像してみ、犯罪者の1%が犯罪の65%を犯すんや。
だからその1%が、あんたが本当に心配せなあかん人々やと想像してみ。彼らはしばしば、非常に若い時期、乳児期でさえ現れ始めて、青年期を通して成人期まで続く安定した犯罪パターンを持ってるんや。もしあんたが彼らを20代後半まで刑務所に入れとくなら、ほとんどの人は止めるんや。そしてそれは、それを理解する最も簡単な方法は、単に成熟が遅れてるだけかもしれへんな。ほな、ほとんどの人は救済可能なんか?そうや、間違いなくな。全ての人が救済可能なんか?まあ、ある時点で、まず第一に、彼らは救済されたいと思わなあかんのや。それが問題やな。でもそれから、それはこんな感じにもなるんや。まあ、どれだけの資源をそれに投入するつもりなんや?どれだけの資源をそれに投入するつもりなんや?
知ってるやろ、あんたがウサギの穴を下りれば下りるほど、あんたを引き上げるのにより多くのエネルギーが必要になるんや。だから、あんたを地獄の底から救い出すのに十分な資源を投入できる確率がゼロになる時点が来るんや。そしてそれはめっちゃ悲しいことやな。そしてそういう状況にある人の周りにいるのはめっちゃ難しいんや。めっちゃ、めっちゃ難しいんや。そしてそれは、運動のリーダーたちの方がサイコパスになる可能性が高くて、運動の信者たちは、ワイらが言うてた、イデオロギーに自分自身を見失ってしまった人たちになる可能性が高いみたいやな。
まあ、ワイらは、あんたが言うたことが本当やってことを、歴史的にもかなりの程度知ってるんや。なぜならドイツは成功裏に非ナチ化されたし、ナチス運動のあらゆる要素に参加した全ての人が裁かれたわけやないからな。全然そうやないんや。日本でも同じことが起こったんや。だからある程度は。南アフリカでも同じことが起こったんやな。そうやな、そしてそれは事実やな。例えば、ワイらが前に言及してた物語でも、聖書の物語でも、族長たちのほとんどは、最初はかなり悪い人々やったんや。ヤコブはめっちゃ良い例やな。ヤコブはイスラエルになる人物や。彼は聖書の物語の主要な登場人物やけど、彼は最初はかなりひどい行為者やったんや。
彼はマザコンやったんや。彼は嘘つきやったんや。彼は、彼は自分の兄弟から盗むんや。しかもかなりひどい方法でな。彼は父親を欺くんや。彼は臆病者やったんや。知ってるやろ。それでも彼は人生を変えるんや。だから気をつけなあかんな。あんたが崇拝し崇める指導者たちにはな。でもそれから、誰が善で誰が悪かを知るのは必ずしも明確やないんや。そうやな。それは難しいな。あんたは人生の中で、精神的にかなり暗い場所を通ってきたんやな。あんたの人生の中で、どんな暗い時間があって、どうやって光を見つけたんや?
まあ、ワイは言うやろうな。ワイは悪の問題と非常に若い頃、13歳か14歳くらいから向き合い始めたんや。そしてそれが、それがワイの主な、それが30年間ぐらいワイの研究の主な動機やったんや。その30年の終わりに、ワイはその代替案を詳しく説明することにますます興味を持つようになったんや。悪が存在するって確信するようになると、そしてワイは、それはめっちゃ若かった頃やけど、ワイはいつも、もし何かを十分に理解できれば、その解決策を formulate できるって信じてたんや。でも分かってきたのは、悪を見て、それが存在することを理解するのは、その反対のものの技術的な説明よりも簡単やってことや。善とは何なんや?あんたは言えるやろう、まあ、それは確実にそれやないな。それはアウシュヴィッツやないな。ほな、そこから始めようや。それはアウシュヴィッツからできるだけ遠いもんや。それはアウシュヴィッツの収容所警備員であることを楽しむことからできるだけ遠いもんや。オッケー。
まあ、あんたがそれからできるだけ遠いところにいる時、あんたはどこにいるんや?それはどういう意味なんや?それは、ワイが思うに、遊びと何か関係があるんや。ワイは、専制政治の対極にあるのは遊びやと思うんや。だからそれを理解するのにワイは長い時間がかかったんや。それは特にな、知ってるやろ?うーん、そしてそれはめっちゃ暗かったんや。ワイは本の中で抽象的に発見できる最悪の行動を研究することに多くの時間を費やしてきたし、でもまた臨床実践の中でも、そして人々の観察の中でもな。そしてそれは、それはきついんや。うーん、最近ワイはめっちゃ病気やって、めっちゃ痛みがあったんや。それはほとんど休みなく3年間続いたんや。
そしてその時にワイにとって特に役立ったのは、ワイの関係の強さ、直接の関係、友情、そしてまたワイが人々ともっと広く確立した関係やったんや。知ってるやろ、なぜならワイが病気になった頃には、ワイはかなり有名になってたし、ワイが苦労してる時、人々はめっちゃ支えてくれたし、それはめっちゃ助けになったんや。でも確かにワイの家族との関係、特に家族との関係やけど、友達との関係も、救いの恵みやったんや。そしてそれは知っておくべきことやな。知ってるやろ、ワイは言うてるけど、世界の重荷を自分の肩で背負うことは必要やな。それは確かやな。自分自身の存在の重荷と、あんたが担える他のどんな責任もな。でもそれは決して、あんたがそれを一人でできる、あるいはすべきやっていう意味やないんや。
そしてな、知ってるやろ、あんたはこう言うかもしれんな。まあ、人生の逆境を贖いの挑戦として歓迎するっていうのは、典型的な人の能力を超えた課題やし、多分誰の能力をも超えてるかもしれへん。でもあんたが考えてみ、まあ、あんたは一人やないんや。多分あんたは社会的に一人やないし、家族的にも一人やないんや。多分あんたは形而上学的にも一人やないんやないか。いや、そこには主張があって、ワイはそれが真実やと思うんや。例えば、旧約聖書と新約聖書の両方に同じように、あんたが自発的に遭遇しようとする暗闇が多ければ多いほど、アブラハムと族長たちの精神があんたと共に歩む可能性が高くなるっていう主張があるんや。
そしてワイはそれが正しいと思うんや。ワイはそれが技術的に正しいと思うんや。あんたの最高の部分が明らかになるんや。もしあんたがそういう風に考えたいなら、あんたの最高の部分、それが何を意味するにしても、あんたが最も困難な挑戦に積極的に、自発的に立ち向かう時に明らかになるんや。なぜそうならへんのやろ?そしたらあんたは考えるかもしれんな、まあ、それはあんた自身なんや。あんたの最高の、まだ明らかになってへん部分はあんた自身なんか?いや、それは一種の形而上学的な現実なんや。いや、それは一種の形而上学的な現実なんや。それらはまだ現れてへんし、可能性としてしか存在せえへんのや。それらはあんたが現在できることを超越してる。でも存在はしてるんや。あんたはそれを自分自身って呼んでもええんや。
例えば、ユングのそういう用語に関する主張は、ワイらが「自己」っていう言葉を「神」の代わりに使う理由は、ドイツ共和国がニーチェが描写したような神を取り除いたプロセスで神が取り除かれた時、ワイらは同じものを本能的な領域の底に見つけただけやってことやったんや。ワイらはそれを上やなくて底に見つけたんや。それは重要やない、根本的に重要なのは、それが現実かどうかってことや。そしてワイはそれが根本的な現実やと思うんや。なぜならワイは、あんたが物事をより深く掘り下げれば掘り下げるほど、これがモーセに燃える柴に遭遇した時に起こることやと思うんや。
だからモーセはただ自分の人生を送ってて、彼は羊飼いで、大人で、妻がいて、子供がいて、責任があって、彼は家を離れて自分を確立してて、だからモーセにとって物事はかなり良かったんや。そして彼はその物語の中でホレブ山の近くにいるんやけど、それは世界の中心の山なんや。それはシナイ山と同じ山で、天と地が触れ合う場所なんや。そして彼は彼の注意を引くものを見るんや。それが燃える柴なんや。そして柴は木で、それは生命で、それは生命の木で、それが燃えてるっていう事実は、それは誇張された生命なんや。なぜなら生きてるものは全て燃えてるからや。そしてモーセを呼び寄せるのは、存在そのものの精神みたいなもんで、それは彼を beaten track から引き離すんや。そして彼はそれを調べに行くことを決めるんや。だからモーセは beaten track を離れて調べに行く全ての人なんや。そして彼が調べるにつれて、
彼はより深く深く掘り下げていって、彼が今聖なる地を歩いてるってことを理解し始めるんや。だから彼は靴を脱ぐんや。そしてそれはアイデンティティの変容の象徴的な参照なんや。彼はもう同じ道を歩いてへんし、もう同じアイデンティティを持ってへん。彼は流動状態にあるんや。そしてそれが、彼がこの呼びかけと相互作用し続ける時に起こることなんや。そしてモーセは明らかにされてるものが何かを尋ねるんや。そして神は言うんや、ワイは存在そのものの精神やって。それが基本的に答えなんや。ワイはワイであるものや。それは、それはもっと複雑な質問や。それはもっと複雑な複雑な発言なんや。ワイはワイがなるであろうものや。ワイは生成しつつあるものや。それは同時にそれら全てなんや。
それは彼に語りかけてる存在の精神なんや。存在と生成の精神や。そしてそれはモーセに、彼がめっちゃ説得力のあるものにこれほど深く掘り下げたから、彼のアイデンティティは変容して、彼は今や権力に真実を語れる指導者になったって言うんや。そして彼は自分の兄弟アロンと同盟を結ぶんや。アロンは政治的な腕で、コミュニケーションが取れる人物なんや。そして彼はエジプトに戻って暴君に立ち向かうんや。そしてそれは、もしあんたが人生と適切に格闘すれば、存在と生成の精神があんたと共に歩むっていうアイデアの表れなんや。そしてそれは、どうやってそれが真実やないことがあり得るんや?なぜなら反対は、挑戦の中に成長がないってことになるからや。まあ、あんたはそれを信じるには無限に虚無主義的にならなあかんな。
それは明らかやな。でもそれはまた、苦難が結局は深く掘り下げるきっかけになるってことがめっちゃ面白いんやな。それは自発的に引き受けられた苦難なんや。そしてそれは決定的に真実なんや。見てみ、もしあんたが誰かをセラピーに連れてくるとするやろ。例えば、彼らがエレベーターを怖がってるとして、あんたが彼らをエレベーターの近くに騙して連れて行ったら、あんたは彼らをもっと悪くするだけやろう。でももしあんたが彼らと交渉して、彼らが自発的にエレベーターに向かって動くようにしたら?彼ら自身の認識で、彼らは恐怖を克服して、一般的にもっと勇敢になるんや。でもそれは自発的でなきゃあかんのや。見てみ、ワイは自発的っていう質問についてもっと掘り下げて探求したいんや。そうやな。ニーチェを見てみよう。そうやな。彼は生涯を通じていくつかの健康上の問題に苦しんだんや。偏頭痛、視力の問題、消化器の問題、自殺念慮を伴う鬱やな。
それでも彼は人類史上最高の知性の一人なんや。ほな、彼が苦しんでたこれらの問題は、議論の余地はあるけど、非自発的に、特徴やったんか、それとも欠陥やったんか?それは良い質問やな。ヨブの物語でも同じことが起こるんや。なぜならヨブは良い人やからや。神自身がそれを認めてるんや。そしてサタンがやって来て神に言うんや。「見てみ、あんたはあそこのヨブってやつをかなり誇りに思ってるみたいやな。」神は言うんや、「そうや、彼はかなり良くやってるな。」そしてサタンは言うんや、「ワイは、それは単に彼にとって物事が楽やからやと思うわ。ワイに彼に手を出させてみて、何が起こるか見てみようや。」そして神は言うんや、「そうやな、ワイはあんたが間違ってると思うわ。ワイはあんたが間違ってると思うわ。あんたの最悪のことをやってみろ。」そうやな。そしてそれが、人々がニーチェのような人が矢のように飛んでくる時に感じることなんや。
まあ、ヨブの反応はこうや:今、物語はヨブに降りかかることが実際にかなり恣意的になるように設定されてるんや。あんたが描写してるこれらの大惨事やな。ヨブの中の自発性は、その逆境に直面してさえも絶望を拒否することなんや。そしてそれは何か自由意志の表現みたいなもんに見えるんや。彼は信仰を失うことを拒否するんや。そして物語の終わり方は、ヨブは全てを取り戻して、さらに多くを得るんや。そして、知ってるやろ、だからそれは降下と上昇の物語なんや。そして皮肉屋は言うかもしれんな。まあ、目的は手段を正当化せえへんって。そしてワイは言うやろう、まあ、それは公平やけど、それはその物語のかなり浅い解釈やな。それが代わりに示してるのは、もしあんたが幸運なら、なぜなら忘れんといてな、そしてあんたが逆境に直面してさえも態度を最適化するなら、あんたの運が戻ってくることは珍しくないってことなんや。
知ってるやろ、そしてワイは多くの状況で、ワイに対して最も悪意のある目的を持ってた記者たち、ワイの犠牲を払ってでも自分たちの悪名を高めて社会的地位を得ることに最も関心があった記者たちが、ワイに最大の恩恵をもたらしてくれたって分かったんや。知ってるやろ、彼らはワイに最大の恩恵をもたらしてくれたんや。彼らはワイに最大の恩恵をもたらしてくれたんや。そしてそれは面白いな。なぜなら彼らは間違いなく最も災難が差し迫ってた場所やったからや。そしてワイはその後毎回、それが起こった後、ワイの家族全員が2ヶ月くらい不安定になったって感じたんや。なぜなら物事が、サイコロがどっちに転がるか全然明らかやなかったからや。でもあんたはそれに立ち向かったんやな。
だから、ある意味で、非自発的なものから自発的なものへの一種の変容があるんや。基本的に「かかってこい」って言うことで、その「かかってこい」っていう行為が、非自発的な苦難を自発的な苦難に変えるんや。まあ、必ずしもそうやないかもしれへんけど、あんたはそれがあんたの最善の賭けやって言えるやろうな。まあ、知ってるやろ、ワイは決して、正しい態度さえあれば全ての大惨事を乗り越えられるって言うつもりはないんや。なぜならそれは言い過ぎやからな。でもワイは言えるのは、厳しい状況では常に選択の要素があるってことや。そしてもしあんたが正しい選択をすれば、あんたは、あんたは成功の度合いを、可能な限り最大限に高めることができるんや。それを言うのは多すぎるかもしれへんけど、それでも真実かもしれへんな。ヴィクトール・フランクル、マルクス・アウレリウス。
まあ、それが復活の物語が宣言してることなんや。知ってるやろ、想像できる限り最も暗い状況の下でさえ、あんたは何もできへんのや。そしてそいつがワイは、ワイは思うに、善の勝利が根本的な結末やと思うんや。そしてそれはワイには真実のように思えるんや。あんたは人生を振り返って、全体的に分析して後悔はあるんか?まあ、ワイが言うたように、ワイは約3年間めっちゃ病気やったんや。そしてそれは本当に残酷やったんや。つまり、これは嘘やないけど、その3年間の毎分が、ワイがそれまでの人生で一度でも経験したどんな瞬間よりも悪かったんや。だからそれはきつかったんや。最もきつかったのは肉体的なものか、それとも心理的なものやったんか?痛みやな。文字通りの痛みか?そうやな、そうやな。ワイは1日に10〜12マイル歩いてたんや。
雨が降ろうが晴れようが、冬でも関係なかったんや。よくなかったんや。そしてそれは、それはそれ以上に悪かったんや。なぜならワイは、1日が進むにつれて、ワイの痛みのレベルが下がっていって、夜の10時か11時くらいに疲れ始める頃には、何て言うんやろ?ワイは普通の悪い日に近づいてたんや。でもワイが眠りにつくとすぐに、時計がリセットされて全ての痛みが戻ってくるんや。
そしてそれは、それはめっちゃきついんや。なぜなら睡眠はあんたが避難する場所やからな。知ってるやろ、あんたは疲れ果てて、疲れてて、眠りにつくと目覚めて、一般的には、それは何かしら新しい日に近いもんなんや。これはステロイドを打ったシーシュポスみたいなもんやったんや。そしてそれは希望を持ち続けるのがめっちゃ難しかったんや。なぜならワイはできることは全てしてたからや。朝起きるのに1時間半くらいかかる時もあったんや。そしてワイはそれら全てをして、多かれ少なかれ1日の終わりには何か人間らしいものに自分を戻すんや。
そしてワイは完璧に知ってたんや。疲れ果てて、もしワイが眠りに落ちたら、ワイはまたあの血まみれの丘の底に戻るってことをな。そしてそれを2年くらい続けた後は、間違いなくワイを支えてくれた家族がいたってことがワイをそこから連れ出してくれたんや。あんたは自分自身について何を学んだんや?自分自身と人間の心について、そこから、そのすべての日々から何を学んだんや?まあ、ワイは自分の周りの人々に対してもっと感謝するようになったと思うわ。そしてワイはそれを持ってることがどれだけ幸運で、それがどれだけ重要やったかを学んだんや。ワイの妻も似たようなことを学んだんや。彼女はある種のガンと診断されたんやけど、ワイらが知る限り、彼女以外の全ての人を殺したガンやったんや。それはかなり珍しいんや。
そして彼女の経験は、彼女に本当に希望を与えて、少なくとも彼女を救うのに役割を果たしたのは、特に彼女の息子が彼女に対して持ってる愛の深さを理解したことやったんや。そしてそれは彼女とミカエラ、彼女の娘との関係について何も言うてへんのや。ただ、その愛の啓示が、タミーに自分の人生の価値を理解させたんや。彼女は自分自身では気づかへんかったような方法でな。ワイらは非常に、非常に – ワイらと、ワイらが愛する人々の間に違いはないんや。そしてワイらと、どこにいる誰との間にも違いがないかもしれへんのや。でもワイらは少なくとも、まずはワイらが愛する人々の形でそれを理解し始めることができるんや。そしてワイはそれについて、以前よりも上手くなったって希望を持ってるんや。
ワイはそれについて以前よりも上手くなったと思うわ。ワイは以前よりも、ただの普通のこと – 普通であることに – めっちゃ感謝するようになったんや。なぜなら、ワイが最初に回復し始めた時、ワイはこの薬局に立ってて、処方箋を待ってたんやけど、小さな町でね。そして彼らはそれほど効率的やなかったんや。だからワイはその通路に20分くらい立ってたんや。そしてワイは思ったんや。ワイは燃えてへん。ワイはここに、ワイの人生の残りの時間、ただ立ってられるんや。痛みがなくて、それを楽しむことができるんや。そして知ってるやろ、それは以前やったらワイにとって何か – 知ってるやろ、ワイはイライラして、先に進みたがったやろうな。なぜなら通路の真ん中に20分も立ってる時間なんてなかったからや。
そしてワイは思ったんや。まあ、知ってるやろ、もしあんたがただそこに立ってて、燃えてへんのやったら、物事はあり得る以上にめっちゃ良くなってるんやな。そしてワイは確かにそれを知ってるんや。そしてワイはほとんど常にそれを覚えてると思うわ。あんたは人生のありふれた瞬間をもっと深く感謝できるようになったんやな。そうやな、間違いなくな。ありふれたものの奇跡やな。そうやな。ワイはニーチェもそうやったと思うわ。なぜなら彼はめっちゃ病気やったからな。そしてだからワイは彼がそうやったんやないかと思うわ。知ってるやろ、そして彼は彼の人生の終わり頃に住んでた村の住民たちから、聖人に近いものとして見られてたんや。彼は明らかに、全ての苦しみにもかかわらず、めっちゃ立派に振る舞ってたんや。知ってるやろ、でもそれでもまだ、ニーチェの多くの作品にあるように、ありふれたものの奇跡を感謝すること対平凡さの専制への恐れの間には緊張関係があるんや。
それはより平凡で恨みを持つ人々のことやな。そうやな、でもそれはあんたが、彼に好意的に見てるか、良いところを見てるかやな。まあ、公平に言えばな。知ってるやろ、そこには一種の、ワイは言うてるけど、平凡さの専制。ワイはいつも、ある人々が他の人々よりも優れてるっていうアイデアが嫌いやったんや。そしてワイはそれを理解してるけど、それは危険なアイデアやな。これが、ワイがカインとアベルの物語が好きな理由やと言うやろうな。なぜならカインは平凡やけど、それは彼が最善を尽くすことを拒否するからなんや。それは彼に内在するものやないんや。そしてワイは実際にそれが正しい formulation やと思うわ。なぜなら、知ってるやろ、ワイには臨床実践で、比較の観点から見て多くの次元で失われてた人々がいたんや。
ワイが特に覚えてる一人の女性は、まあ、彼女にはたくさんの問題があったんや。彼女は教育を受けてへんかったし、知的やなかったし、ひどい家族を持ってて、精神科入院の恐ろしい歴史があったんや。うーん、そしてワイが彼女に精神科の外来で会った時、彼女は精神科病棟から外来患者やったんやけど、彼女は自分よりも状態の悪い人々と一緒にそこにいたんや。そして彼らはそうやったんや。そしてそれはずっと前のことやったんや。それはずっと下の方やったんや。それはダンテの地獄のレベルやったんや。それは長期の精神科入院病棟やったんや。そこにいた人の中には30年間そこにいた人もいたんや。それは、カッコーの巣の上を飛んでをロマンチックコメディに見せるようなもんやったんや。そして彼女はそこに戻ってきて、そこにいた人たちの何人かを散歩に連れて行けないかを確認しに来てて、そのための許可を得る方法を見つけようとしてたんや。
そしてな、知ってるやろ、より良い。他の人々よりも良いっていうか、ある人々はより知的で、ある人々はより美しくて、ある人々はより運動能力が高いんや。つまり、多分すべての達成レベルの人々が善に向かって努力することは可能なんやないか。そしてたぶん、人々に不公平に与えられたそれらの才能は、彼らの道徳的行動に関して彼らを特権化せえへんのやないか。そしてワイは、ワイはそれが真実やと思うわ。つまり、例えば、知性と道徳性の間に何の相関関係もないってことを示す証拠は全くないんや。そうやな。あんたが賢いからって、より良い人間ってわけやないんや。そしてそれが意味することは、もしあんたが賢ければ、あんたはもっと悪くなるのがめっちゃ上手くなれるってことやな。ワイ自身、ワイの知覚のせいで人々を軽視することを恐れてるんや。
そうやな、まあそれがワイらが、みんなが神のイメージで作られてるっていう形而上学的な前提を持つ理由なんや。そうやな。明らかな能力の莫大な多様性にもかかわらず、時は運命と一致してるっていう根底にある形而上学的な仮定があるんや。そうやな、ワイら全員が任意の近接的な目標に関連して、知覚された実際の有用性において様々やけど、それら全ては公理的な価値の問題とは独立してるんや。そしてそのアイデアは馬鹿げてるように見えるかもしれへんけど、ワイにはそれを基本的な公理的前提として受け入れる社会が、常にあんたが選択できるなら住みたいと思う社会やって思えるんや。そしてそれはワイにとって、その前提の有用性の存在証明なんや。
そしてな、知ってるやろ、もしあんたが人生でそういう風に人々を扱うなら、あんたが持つ全ての出会いで、それは個人的な能力の違いにもかかわらず、何て言うんやろ、価値の根本的な平等っていう前提を立てるんや。何かそんな感じやな。まあ、あんたの相互作用はめっちゃうまくいくんや。ワイは言うてるけど、みんなそういう風に扱われたいと思ってるんや。見てみ、これがあんたの発達のメンタルな順序や。素朴で信頼してる。傷ついて冷笑的。オッケー。まあ、傷ついて冷笑的なのは素朴で信頼してるよりましなんやろか?それは、そうやな、たぶんな。それで終わりなんか?三番目のステップとして冷笑的で信頼してるってどうや?そうやな。そして信頼が勇気になるんや。それは、そうや、ワイはあんたに手を差し伸べるやろう。でもそれは、ワイが馬鹿やからやないんや。
そしてワイはそれが正しいと思うわ。なぜならそれは、その最初の信頼の再確立やからな?それが子供時代を魔法のようで楽園のようにするものや。でもそれは知恵との混合なんや。それは、そうやな、知ってるやろ、ワイらは一緒に上り坂を歩けるかもしれへん。でもそれはつまり、そしてワイはそれがあんたの目標やって前提するやろう。でもそれは、ワイが見てへんっていう意味やないんや。どっちの人生がより良いんや?冷笑的で安全か、それとも希望に満ちててでも傷つく可能性があるか。ああ、あんたは傷つく可能性を取り除くことはできへんのや。それももう一つの気づきや。つまり、あんたは人生を何かに賭けなあかんのや。あんたは人生を安全に賭けることもできるけど、それは助けにならへんのや。あんたにはその選択肢はないんや。
ほな、あんたが誰かに裏切られた時、結局はあんたが出会う人々に裏切られた時、どうするんや?嘆いて、他を探すんや。あんたができることをして許して、それについて考えんようにするんや。少なくともあんた自身の重荷を軽くするためにな。多分あんたを裏切った人を助けるためにできることをするんや。そしてもしそれが全て不可能やったら、手を洗って次の冒険に進むんや。そしてまたやるんや。そうやな。ボーイ、この人生、何かすごいな。ほな、ワイらはいくつかの重くて難しいトピックについて話してきたし、あんたはニーチェの講義やその他の場所で真理について話してきたんや。あんたが考える時、書く時、話す時、どうやって真実なものを見つけるんや?知ってるやろ、ヘミングウェイは「あんたがしなきゃいけないのは、一つの真実の文を書くことだけや」って言うたんや。あんたはどうやってそれをするんや?
まあ、ワイはまず、あんたはそれを練習するって言うやろうな。それは、つまり、その質問は何か、そしてヘミングウェイはこれを少なくともある程度知ってたんやけど、そして彼は確かにそれについて書いたんやけど、あんたは人生を上向きに向けなきゃあかんのや。できる限り完全にな。なぜならそうせんと、あんたは真実と虚偽を区別できへんからや。それは練習でなきゃあかんのや。そしてワイにとって、ワイがその練習を真剣に始めたのは、それが個人的なものやって気づいた時やったんや。個人の恨みを持ち、臆病で、欺瞞的な不道徳さが、人間が関与する恐ろしい残虐行為につながるってことに気づいたんや。それがワイらに自分たちの価値さえも疑わせるようなものにな。ワイはそれを完全に確信するようになったんや。根本的な悪の原因は、言うたら、経済的なものやなくて社会学的なものやなくて、精神的なもの、心理学的なものやってな。そしてもしそうやったら、あんたには存在論的な責任があるんや。上向きを目指して、真実を語るってな。そして全てがそれにかかってるんや。
そしてワイはそれを確信するようになったんや。ほな見てみ、あんたは自分の方向性で道を設定するんや。それがあんたの知覚の仕組みなんや。あんたに目標ができたら、すぐにあんたの前に道が開かれて、あんたはそれを見ることができるんや。そして世界は、障害物とあんたを前に進めるものに分かれるんや。そしてあんたの前にある道は、あんたの目標に依存してるんや。あんたが知覚するものは、あんたの目標の具体化なんや。もしあんたの目標が真実やなかったら、あんたは真実と虚偽の区別がつかへんやろう。そしてあんたは言うかもしれんな、まあ、あんたの目標が真実やってどうやって分かるんや?それは、まあ、あんたは継続的に軌道修正するんや。そしてあんたは究極のものを目指すことができるんや。あんたは自分の目標が正しい方向を向いてるって確信することはあるんか?
あんたは自分の理解の正確さを徐々に高めていくんや。それはプロセスの一部として、線を越えることや、オバートン・ウィンドウの外に出ること、オバートン・ウィンドウの外にちょっと足を踏み入れることが必要なんやないか?もちろんや。それは部分的にあんたが遊びの中ですることでもあるんや。ワイはコメディー・マザーシップにいたんやけど、全てのコメディアンが完全に非難されるべきやったんや。彼らがしてたのは、全て言えへんことを言うことやったんや。まあ、でもそれは面白かったんや。そしてそれから質問は、これはワイが講義でしようとしてることなんか?ワイは境界線上にいて、ワイは答えようとしてる質問があって、ワイはそれを理解しようとしてるんや。ワイは会話がどこに向かうか本当に分からへんのや。つまり、それは探索なんや。
そしてワイは、聴衆が反応する理由は、彼らがそれが綱渡りやってことを感じれるからやと思うんや。知ってるやろ、そしてワイは失敗する可能性があるし、知ってるやろ、ワイの講義には成功の度合いがあるんや。だから時々ワイはめっちゃ幸運で、そこに完璧な物語のアークがあるんや。ワイには質問があって、ワイはそれを調査してて、ちょうど良いタイミングでパンチラインの結論に到達するんや。そしてそれは、まるで全ての行為が完成したみたいなんや。そして時にはもっと断片的やけど、ワイは聴衆が夢中になってるのが分かるんや。なぜなら全員が静かやからな。多分笑ってる時以外はな。あんたが講義してる時に自分自身と議論してるような感覚があるんや。それは美しいんや。本当に美しくて強力に見えるんや。
ニーチェも同じようなことをするんや。あんたが言うてることには矛盾があって、あんたが言うてることには闘争があるんや。でもワイは、あんたがインターネット上で同じことをしてる時、あんたは逸脱に対して罰を受けると思うわ。あんたは探索に対して罰を受けるんや。特にそれがオバートン・ウィンドウの外を探索する時にな。見てみ、もしあんたが会話の中で探索するために激しくプレイするつもりなら、あんたはコストのかかる、刺激的なことを言うことになるんや。そしてそれは問題を引き起こす可能性があるし、間違ってる可能性もあるんや。そしてそれが、言論の自由の保護がそんなに重要な別の理由なんや:あんたは実際に、言うたら最適な状況では、善意の人々が間違ってる権利を保護せなあかんのや。
今、あんたはおそらくそれを超えて、本当にそれを保護するには、善意やない人々が間違ってる権利さえも保護せなあかんのかもしれへんな。知ってるやろ、そしてワイらはそれも必要なんや。なぜならワイらは常に善意やないからな。でもワイは知らへんのや。その保護の代替案は、人々が常に100%正しいことだけを言うべきやっていう主張になるやろう。ワイはまた、これは人間の仲間たちに対する呼びかけやと思うんや。特定の発言に人を還元せんようにって。インターネットはそうしたがるからな。特に彼らが今まで言った最悪のことにな。そうやな、そうやな。なぜなら神様、まあ、その基準で判断されたら誰でも運命づけられてるからな。黙ってへん限りはな。
でもそれはまた、あんたにプレイしたくなくさせるんや。そうやな、そうやな。radical な思考実験を行って、まあ、それを。だから、ある意味で全体主義国家の定義やな。全体主義国家では誰も遊んでへんのや。でもこの場合は、サイコパスたちが風景を徘徊してる中で出現するものなんや。まあ、そのバーバリアンたちが、それが全体主義の一般的なパターンかもしれへんな。まあ、全体主義では通常一人のサイコパスがいるだけで、複数はおらへんな。そうやな、でも全員が、まあ、少なくとも沈黙することで共犯になってるんや。そうやな、オンラインでのサイコパスの病理を研究することはあんたを疲れさせるんか?そうやな、間違いなくな。あんたはそれをもっと少なくすることを考えたことはあるんか?そうやな、そうやな、間違いなくな。でもあんた知ってるやろ
おそらくワイはその大部分をXで経験してるんやけど、そこでもワイのゲストの大部分を見つけてるんや。それも、ワイが時代の流れを感じ取る方法なんや。例えば、ポッドキャストのホストになるには必要なことやし、ワイの講義を的確で最新のものにするのにも必要なんや。現在の瞬間のサンプルを取るには、多くの面で瞬間の一部でなきゃあかんのや。高いレベルで機能するにはな。そこにはコストがあるんか?そこにはコストがあるんや。なぜならあんたはある意味で全てに晒されるからや。そしてあんたは暗闇を過剰にサンプリングすることもできるんや。そうやな、間違いなくな。そしてそれはあんたをますます冷笑的にさせる可能性があるんや。そうやな、まあ、それは危険やな。
そうやな、そうやな。まあ、幸いにもワイにはな、知ってるやろ。ワイにはそれに対抗する多くのものがあるんや。ワイらが話した家族関係、友情関係、そしてワイがする全ての公的なことも肯定的なんや。例えば、講演ツアーは、ワイがよくやってるけど、基本的に100%肯定的なんや。だからワイは、それに対してめっちゃうまく守られてるんや。それを聞けて良かったわ!アリーナで闘技士たちが戦うのを見てるファンとして、あんたの心は冷笑的なものに、…深淵との戦いに失われるには重要すぎるんや。まあ、あんたには道徳的な義務もあるんや。肯定的な、肯定的な方向性を維持する道徳的な義務がな。将来は、もちろん矛盾する可能性に満ちてるんや。
ワイは言うてるけど、ある意味では、変容の速度が速ければ速いほど、善と悪の可能性がより多く現れる瞬間があるんや。でも将来がワイらが望むすべてのものになることを保証する最良の方法は、その方向が勝つという信念を維持することみたいやな。そしてワイは、それが単純な楽観主義やない時、それは一種の道徳的なコミットメントの形やと思うんや。まあ、ジョーダン、勇気を持って、多くの人々にとって暗闇の中の光であることに感謝するわ。そして今日も再び話してくれてありがとう。招待してくれてありがとう。そして会話にも感謝するわ。でもあんたに会えていつも嬉しいし、うーん、あんたも暗い隅を照らして人々を上向きに導くっていう、かなり素晴らしい仕事をしてるんや。
ワイは言うてるけど、あんたはそれをめっちゃうまくやってるし、あんたのポッドキャストでそれをやってるのは素晴らしいことやと思うわ。そしてあんたは、本当にそれがめっちゃうまいんや。ありがとう。ジョーダン・ピーターソンとの会話を聞いてくれてありがとう。このポッドキャストをサポートするには、説明欄のスポンサーをチェックしてな。そして今、フリードリヒ・ニーチェの言葉を紹介させてもらうわ:ワイはもっともっと、物事に必要なものを美しいと見るようになりたいんや。そしたらワイは、物事を美しくする人の一人になれるやろう。聞いてくれてありがとう。そして次回にお会いできることを楽しみにしてるわ。

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